14、15世紀以降のヨーロッパ


14、15世紀のヨーロッパは大変に後れた地域だった。ペストに悩み、生産性も低く、科学技術も遅れ、内乱と宗教的迷信に支配され、悲惨な魔女裁判がおこなわれていた。考えられないほど野蛮な地域だった。宗教戦争も絶えることがなかった。
16世紀のヨーロッパで、戦争がなかったのはわずか10年である。17世紀はわずか4年。パックス・ロマーナの時代が過ぎてから1000年にわたるヨーロッパの歴史の中で10年以上平和だったことは一度もない。なぜヨーロッパは戦うことを好み、戦う手段、武器の開発にしのぎを削ったのか。
ヨーロッパ人はアジアに進出して富を拡大した。なぜそうしたかというと故国にお金を送るため、故国の財政を豊かにすることが目的だった。ではその金を何のために使ったか。一番大きな理由は果てしない戦争を繰り広げるための戦費だった。そのためにアジアに進出してアジアの富を略奪することが必要だった。
王家を繁栄させて、ヨーロッパの国内で戦争をするために、外へ出て行っては富を得てくる。これが最初の目的、動機だった。
ヨーロッパは内部で激しい戦争を繰り返していた。内部での覇権闘争が激しかった。最初にスペイン、ポルトガルが勝ち、次いでオランダが出てきて、やがてイギリス、フランスが覇権国家として飛び出してきた。
ヨーロッパと東アジアの一番異なる点は、ヨーロッパには秩序を形づくる中心点がなかったことである。イギリスもフランスもそれぞればらばらだった。たとえば支那やインドでは皇帝が中心にいる。ヨーロッパでは、自分の地域の中のヘゲモニーをめぐる争いと、地球の他の地域での争いとが同時並行的に現れた。それが18世紀半ば以降さらに熾烈を極め、終わりなき戦いは地球の裏側までやっていた。

フランスとイギリスがまずインドで戦い、次いでカナダで決戦を行った。19世紀に入ると帝国主義と名付けられる時代となり、支那などの東アジアに争奪戦は忍び寄った。
戦うことにおいて激しいヨーロッパ人は、戦いを止めることにおいても徹底して冷静である。他と戦うことがより多くの利益を生むときには戦うが、戦いを止めたほうがより大きな利益を生むときには戦いを止めることにおいて躊躇しない。イギリスとフランスはインドとカナダにおいて激しい死闘を演じた()が、途中で戦争を止めて和睦する。利益のためには自国の欲望を抑えて、相手国と協定や条約を結ぶ。ヨーロッパ内部での覇権争いは国際社会であり、その国際社会をそのまま他の地域に持ち込んだ。
アフリカは弱いからあっという間にヨーロッパの国々に分割された。アフリカが分割されたのは、1878年にベルリン会議が行われて、プロシア(ドイツ)の宰相ビスマルクが、もうこれ以上ヨーロッパでの領土争奪戦は不可能だと言ったからである。そして争いはアフリカへその場を移した。
ヨーロッパ各国の国際社会のルールは、戦うことにおいて熾烈であれば、戦いを止めることにおいても俊敏である。パッと止めて裏側に回って手を結ぶ。これが彼らの国際社会、国際化である。ところが日本人にはこの二重性が見えない。

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参考文献 歴史年表