流刑囚、オーストラリア到着

オーストラリアにはイギリス人(キャプテン・クック)が1770年に到着した。
当時、この大陸には、原住民(「アボリジニー」と呼ばれる)約30万人が平和に暮らしていた(「aborigine」 は英語で原住民という意味。つまり固有の名前をつけられていないというわけだ)。
彼らは4万年も前に東南アジアからオーストラリア大陸に移住してきた。クックは上陸するや原住民を無視して一方的にイギリス領を宣言した。
イギリスはその後の1788年に、11隻の船に流刑囚1473名を乗せて、シドニー近くに送った。男囚778人、女囚192人という構成だったが、男女囚の比率が4対1というアンバランスなのは先住民にとって非常に迷惑なことだった。男囚の性欲を満たすためにアボリジニーの女性が被害を蒙ったのだ。
オーストラリアはもともと流刑植民地だったため、続いて来た植民者も本国にいられない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。これらの白人にとって現地のアボリジニーは動物のごとく存在と見なされ、虐殺されまくった。信じられないことだがスポーツハンティングとして殺害されもした。
こうしてヨーロッパから最初の船隊が来てから約100年後の1901年には、先住民は6万7000人に激減。オーストラリア南端にあるタスマニア島では、3万7000人いたアボリジニーは絶滅させられた。最後のひとりとなったトルガニーニという女性は「山の奥に私を埋めて」と言い残して苦難の生涯を終え、遺言どおり遺体は山奥に埋められたが、やがて無法者の白人が墓をあばき、遺体を持ち帰った。彼女の骨は考古学上の珍品として高価な値が付き、収集家の手に渡り博物館に陳列されていた。
1910年頃から1970年代にかけて、オーストラリアではアボリジニーの子供を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われた。アボリジニーの子供も白人の「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという独善的な考え方に基づくもので、政府や教会が主導して行なわれた。この政策により子供のおよそ1割が連れ去られ、結果として彼らからアボリジニーとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。
オーストラリアは白豪主義という人種差別政策を長い間行なったのである。

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