日朝修好条規(江華島条約)(1876年)

ロシアの侵略を防ぐため、日本は朝鮮に一刻も早く近代国家になって欲しかったが、日本の要望に朝鮮は拒否し続けた。

  朝鮮、日本との国交樹立拒否

朝鮮との外交権を対馬の宗氏から政府に移した日本は、明治3年(1870)、「」「」「朝廷」を使わないで文書を送った。それでも徳川時代と違ったやり方は嫌だ、日本政府から直接でなく対馬の宗氏を使ってくれ、と挑戦は相変わらず拒絶を繰り返した。この翌年に朝鮮の宗主国の清国とは修好条約を結んでいるから、清国よりも朝鮮の方が頭が堅かった。

  日清修好通商条規(1871年)

日本から行った外交使節はむなしく帰るかたちになった。しかも、この後朝鮮では理由もないのに反日運動が日に日に高まって、江戸時代から釜山にあった日本の外交事務所に薪や食糧を供給しなくなり、その門前には侮辱のプラカードのようなものを立てたりした。さすがに日本も腹を立てた。
当時の日本政府の要人の多くは岩倉使節団で世界を回っていて、国内にいた一番の重要人物は西郷隆盛で、彼は朝鮮への軍の派遣に反対した。しかし、自分が朝鮮に行き、もし殺されたら、そのときは軍を出してくれ、と主張した。これが「征韓論」といわれるものだが、反日・自虐史観に洗脳された人の説明には変なことがいろいろと書かれている。

明治7年(1874)、日本は外務省の役人を朝鮮に派遣し、「新しい手紙を送ったら朝鮮は受け取る」ということで話をまとめた。しかし、翌8年(1875)、日本の使節が朝鮮に行き返書をもらおうとすると、朝鮮側は拒否した。これは、排外主義の大院君が明治7年には勢いがなかったのに、8年になって盛り返したため、一転して拒絶政策になったためである。挑戦が臆面もなく前言を翻すのは今も昔も変わらない。

こうしているうちに事件が起きた。明治8年(1875)、日本の軍艦・雲揚号が朝鮮西岸の航路研究を行なうため江華島の沖合いに停泊していた。そして、飲料水を求めてボートで陸地に近づいたとき、砲台から突如攻撃を受けた。一方的に砲撃されたから、雲揚号の艦長は即座に反撃を加え、陸戦隊を砲台に送り込んで武器を没収して、その後、長崎へ戻った。これを「江華島事件」という。

今までは白人諸国の船を追い返したり、船員を殺したりして朝鮮は白人よりも強いと思っていたが、今回の件で日本に簡単にやられて態度が変わった。それまで日本の要望を拒否し続けていた朝鮮はこの事件をきっかけに、明治9年(1876)に日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。

これは近代になって朝鮮が外国と結んだ最初の条約である。明治政府が朝鮮と国交を結ぶまで9年もかかった(清国とは1年もかかっていない)。

この条約は朝鮮の清国との宗属関係を否定、つまり独立国であることを謳ったという点で、朝鮮にとっては画期的なものだった。条約の第一条では「朝鮮は独立の国であり、日本と平等な権利を有する」と謳われている。つまり、平等であることをわざわざ書き、朝鮮は自首の国といって独立を認めた。これは挑戦の地位を引き上げたのである。朝鮮に対してこのように言ってあげたのは、日本が最初の国だった。
この条約のもっとも重要なこれらの点を反日・自虐教科書は無視している。

日朝通商条規は、朝鮮が始めて自分で結んだ国際条約だった。事実、それに続くようにして、イギリス、ドイツも朝鮮と条約を結んだ。

江華島条約を機に、鎖国攘夷政策を取っていた朝鮮政府内で開国派が影響力を持つようになった。日朝双方にとって喜ぶべき状況が生まれたわけだが、それもわずか6年足らずのことだった。残念なことに、壬午政変を機に、朝鮮は再び清国の影響を強く受けることになった。

  壬午政変(1882[明治15]年)

反日・自虐史観においては、この条約は釜山をはじめとした三港の開港や関税免除を定めた不平等条約とだけ説明して、日本が列強に突きつけられたような不平等条約を、弱い朝鮮に強いたと匂わせている。

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参考文献 歴史年表