対露交渉(1903年)

満洲、韓国に対するロシアの侵略意図が疑いなきものとなった明治36年(1903)8月、日本は対ロ直接談判を開くに至った。談判は翌年1月まで5ヵ月に及んだ。この交渉での日本の主張の骨子は、
  1. 清国・韓国の独立と領土保全を尊重し、両国における通商上の機会均等を相互に約す
  2. ロシアは日本の韓国での優越した利益を、日本は満州の鉄道に関するロシアの特殊利益を承認する
  3. 韓国の改革と善政のため助言と援助(軍事援助を含む)を与えるのは日本の専権であることをロシアは承認する
このようにロシアが承諾しがたい条項は一つもなかった。だが、これに対するロシアの対案は、
  1. 韓国の独立と領土保全の尊重は相互に約するも、満州は日本の利益範囲外なので交渉の対象としない
  2. 日本の対韓援助は軍事以外とし、日本は韓国領土を軍略目的で使用しないこと
  3. 韓国の北緯39度以北を中立地帯とする
満洲の独立と領土保全は交渉外として触れず、日本が韓国に派兵することを禁止し、さらに韓国北部を中立化することによって、満州におけるロシアの自由行動を安全ならしめんとする何とも虫のいい要求だった

これに対して日本は、
  1. 清韓両国の独立と領土保全の尊重、満州を日本の利益範囲外とするなら韓国も露国の利益範囲外として相互に承認すること
  2. 中立地帯を設けるなら韓国側だけでなく、清韓境界の両側各50キロを中立とすること
  3. 日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること
を主張した。
ロシアに互譲の用意があったならば事態は緩和されたはずだが、ロシアは自己の主張を譲らず、その間、極東のロシア軍隊には動員令を下し、満州には戒厳令を布くなど、急ピッチで戦争準備を進めていった
明治37年1月13日、日本はロシアに最終提案を行ったが、ロシア側は無視して戦闘準備の完遂を推進するのみであった。空しく回答を待つこと3週間、日本はついに2月4日、対露断交と開戦を決定、ロシア側に国交断絶を通告した。

  日露戦争(1905年)

参考書籍:大東亜戦争への道(中村 粲)


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参考文献 歴史年表