日米紳士協定(1908年)

アメリカの排日政策の一環。

支那人移民が禁止されると19世紀末ごろから、日本人が支那人に代わってアメリカに移住するようになった。

  日本人移民増加

アメリカ白人は日本人に対しては支那人と違って暴力は振るえなかったので、法的に日本人移民を締め出す方向に動き出した
明治40年(1907)にはサンフランシスコで反日暴動が起こり、多くの日本人が殺傷された
日本はアメリカの反日を考慮して明治41年(1908)にアメリカと「日米紳士協定」を結んだ。商人や学生などのごく少数の認められた日本人を除き、日本は自主的にアメリカ移民を制限することにした。その数は年間200〜300人ぐらいである。その代わりにアメリカは排日的な移民法を作らないと約束した

日本はその協定を厳格に守ったのだが、カリフォルニア州は大正2年(1913)に排日土地法を成立させ、協定は早くも破られたのである。

  第一次排日土地法(1913年)
  第二次排日土地法(1920年)
  絶対的排日移民法(1924年)

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参考文献 歴史年表