漢口事件(1927年)

南京事件の10日後の4月3日に、揚子江中流の漢口で日本の租界が襲われ、暴民によるほしいままの掠奪が行なわれた

  南京事件(1927年3月)

ことの起こりは子供のいたずらから始まったが、漢口における1月のイギリス租界掠奪に味をしめ、さらに南京で無抵抗の日本租界の掠奪(南京事件)に味をしめた支那人たちは、暴徒と化して日本海軍の水兵に襲いかかり、日本租界になだれ込み、日本人の住居や日系工場を片っ端から掠奪した

  イギリス租界奪取事件(1927年1月)

漢口には約2200人の日本居留民がおり、その生命の安否が気づかわれたため、海軍陸戦隊が上陸し、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、暴民を四散させ、かろうじて日本租界は守られた。(支那の暴民に対しては機関銃の威嚇射撃が効果的であることが1月のイギリス租界奪取事件の時に証明されていた)
しかし、日本人居留民は租界の中だけにいるわけではないので、漢口の全日本人居留民2000人以上を集合せしめ、上海に退避させた

南京事件での南京にしろ、漢口にしろ、租界は条約によって列国が保有していたものである。そこに暴民や暴兵が押しかけてきて掠奪するというのは明らかに不法である。しかも、そこで工場を経営したり、商業に従事していた者は財産を根こそぎ失うことになったのである。

南京事件以来、列国の外交団は蒋介石に対して最後通称に等しい抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求するとともに、直ちに軍事行動に出ようという意見が強くなった。音頭をとったのはイギリスだが、それを知った幣原はイギリスとアメリカの駐日大使を呼んで、「最後通牒を蒋介石が受諾すれば屈辱的譲歩をしたと攻撃され、蒋介石政権はつぶれ、国内は無政府状態になり、10数万の居留民を有する日本にとっては危険である。日本はそんな冒険に加わりたくない」と述べた。
日本が最後通帳にも共同出兵にも参加しないというのでは、イギリスもアメリカもフランスもイタリアもどうすることもできない。英米などの提案どおりのことが行なわれていたら蒋介石はつぶれるか、支那全土が戦場になるかのいずれかだった。この時点で蒋介石の国民政府を救ったのは幣原軟弱外交だった

  幣原外交(第一次1924.6〜1927)


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参考文献 歴史年表