中村大尉殺害事件(1931年)

昭和6(1931)年6月27日に参謀本部の中村震太郎大尉と井杉延太郎予備騎兵曹長は北満州へ地誌調査へ行った。そこで支那屯墾軍第三師団の関玉衡の兵隊に捕らえられて殺され、証拠隠滅のために死体は焼き捨てられた
この情報を関玉衡の妾だった植松菊子が日本のチチハル総領事に知らせ、中村大尉一行が殺されたことが明らかになった。日本は外交交渉で決着を図ろうとしたが支那の対応は不誠実なものだった。支那側は事件の調査を約束しておきながら実行せず、支那の新聞や王正廷外交部長も大尉の殺害事件は事実無根といい、王は「満州には不良ごろつきの日本人が多いのでその連中が捏造した宣伝だ」と言い張った

こうした支那の態度に日本国内では強い非難が沸き起こり、満州はますます緊張した状態になっていった
昭和6年9月18日になって、やっと支那側が中村大尉の殺害を認めたが、その日の夜、柳条湖事件(満州事変)が勃発するのである。

  柳条湖事件(満州事変)(1931年9月)


ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表