マクマリー・メモランダム(1935年)

当時北京にいたアメリカ公使(当時、支那には大使がいなかったので事実上、アメリカ公使が支那外交のトップだった)のジョン・マクマリーが1935年になってから、満州事変について分析した報告書を国務省に出した。

そこでは以下のことが書かれていた。
1921年のワシントン会議によって生まれたワシントン体制で支那の権益は他国にそれ以上侵されないように、支那の現状が維持される体制が築かれた。したがって、ほかならぬ支那が率先して国際法を学ばねばならない。それに応じて他国も支那の権益を守るという構図だった訳だが、それを一番破ったのは支那だった。ことごとくワシントン体制の決まりごとを支那が破った。ワシントン体制を最も誠実に守ったのは実は日本国政府であったというのである。
マクマリーは「これは北京在住の外交官ならばだれでも知っていることである」と述べている。日本政府は極めて誠実にその当時の国際法に基づいて、そこで決められたことを守ろうとしたのである。
しかしながら、それに対して蒋介石国民党政権はこれでもか、これでもかというふうに日本を挑発した。そしてついに満州事変が起きた。事変で発足した満州国を認めるわけにはいかない。このようなことは醜い。われわれ外交官もそう思う。けれども、その前の経緯をたどってみれば、これは国民党の蒋介石政権が日本を追い込んだようなものであり、満州事変は支那が自ら蒔いた種を刈り取っているようなものだとマクマリーは書いている。
つまりアメリカの支那外交の代表者であるマクマリーは、むしろ支那が悪くて、支那が原因で満州事変が起きたのだととらえている。しかし歴史にはただ一瞬、その場面だけを切り取って考えることはできない面がある。継続した流れの中で物事を見なければならないとも言っている。

マクマリーが書き記したことを裏付けるような話はリットン報告書にもたくさん盛り込まれている。

  リットン報告書

このメモランダムは日本でも「平和はいかに失われたか」(原書房)というタイトルで翻訳、出版されている。

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参考文献 歴史年表