長沙焚城

1938(昭和13)年1月、長沙に居る支那軍兵士は長沙警備司令部より、日本軍からの攻略を受けた場合には城内を焼き払うよう命じられていたが、長沙城南門外の傷兵病院での出火をその合図ののろしと誤解してしまった。当時日本軍はまだ長沙から数百里の地点にいたのだが、すぐに各処で放火が始まり、市民からの支那軍お決まりの略奪が開始された。
支那軍の放火によって城内は大火災が巻き起こり、三昼夜の延焼で名城は廃墟となり、二十万人以上の死者が出た。
蒋介石は1937年11月に「もし長沙が陥落したら、必ず全城を焼き払え」と命じていた。支那伝統の攻城作戦の一つ、「焚城」を計画したのである。

支那軍隊による焚城は、支那事変を通じて長沙以外でもよく使われた戦術である。南昌や武漢でも行われている。

なお、日本軍は長沙を3回にわたって攻撃したが攻略に成功しなかった。国民党はこれを”勝ち戦”と見なし、蒋介石みずから指揮をとり日本軍の猛攻を退けた、と宣伝している。

参考資料:日中戦争は侵略ではなかった (黄 文雄)


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参考文献 歴史年表