荻外荘会談(1941年11月12日)

9月6日の御前会議決定によれば、10月上旬に至るも対米交渉成立の見込みが立たぬ場合は直ちに開戦を決意することになっていた。
だが、その10月上旬になっても首脳会談の話は停頓したままで、対米交渉打開の目途は全く立たず、日本政府部内の焦燥と懊悩は深まるばかりだった。
このような状況下、近衛首相は10月12日、陸海外三相と鈴木企画院総裁を自宅の荻外荘(てきがいそう)に招き、和戦に関する会議を開いた

会議のはじめ、及川海相から「和戦のいずれに決するかは総理に一任したい」との発言があり、それに対して近衛は「和戦いずれかに決定すべしというなら、自分は交渉継続に決する」と述べたところ、東條英機陸相より「その結論は早すぎる。成立の見込みのない交渉を継続して遂に戦機を逸しては一大事である。外相は交渉成立の見込みありと考えるかどうか」との質問があった。外相が「陸軍が支那駐兵問題で譲歩するならば交渉成立の見込みはないとは云えぬ」と答えたが、陸相は「駐兵問題だけは陸軍の声明であって絶対に譲れない」と主張したのであった。

ちなみに「東條英機宣誓供述書」によれば、東条陸相の主張はこうであった。
仮にアメリカの要求通り支那から完全撤兵すれば、4年余りの支那事変における日本の努力と犠牲は空となるばかりか、日本がアメリカの強圧で無条件撤兵すれば支那の侮日思想はますます増長し、共産党の抗日とあいまって日華関係はさらに悪化し、第二、第三の支那事変が発生し、日本の威信失墜は満洲と挑戦にも及ぶであろう。日米交渉の難点はこの他に四原則承認、三国同盟の解釈、通商無差別問題等もあり、日米妥協は困難と思うが、外相に成功の確信があるなら再考しよう。また和戦の決定は統帥に重大関係があるので、総理に一任するわけにはゆかない

及川海相の「総理一任論」には近衛首相も、東條陸相もひどく立腹したといわれている。アメリカとの戦争になれば、それは海軍の問題であるのに無責任すぎるというわけだ。「和戦の決定は統帥に重大な関係がるので総理に一任するわけにはゆかない」とする東條の主張は、それなりに論旨明快であった。

いずれにしろこのように会談は意見が一致せず、結局東条陸相の提案で、(1)駐兵など支那事変の成果に動揺を与えぬことを前提として、統帥部の希望する時期までに、外交上の成功について確信を得ること。(2)この確認の上に外交妥結方針で進むので、作戦上の諸準備を打ち切ること。外相はこれができるかどうかを研究すること - を申し合わせた。この東條提案の趣旨は、支那駐兵は不変更のまま、外交交渉で一定期間内に妥結できるかどうかを検討しよう、というものであった。

10月14日の閣議においても、「外交交渉が必ず成功するなら戦争準備は止めてもよい」と陸相が言えば、外相は「交渉の中心は支那撤兵問題だ」と答える。陸相は「総理はすでに支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」と反論するといった有様で、遂に閣議は一致せぬまま、散会した。

結局は何も決めることができず、近衛内閣は総辞職する。

  近衛内閣総辞職(1946年11月16日)

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)


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参考文献 歴史年表