シベリア抑留

日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、南樺太に侵攻したソ連は数々の極悪非道の行為を繰り返し、おびただしい数の日本人をシベリアに強制連行し、強制労働を課した。極寒のシベリア収容所で飢えと寒さで死亡した抑留者は長い間6万人以上といわれていたが、近年の研究では抑留者が200万死者は40万という、アメリカによる広島・長崎大虐殺に匹敵するものだったという説が出ている。いまだに十分な実態の解明が進められていない。
シベリアに強制連行されたのは、日本がポツダム宣言を受諾終戦となった後であり、しかも日ソ中立条約の有効期限中である。拘留された者は、交戦中に捕らえられたり降伏した、国際法に則った「捕虜」ではなく、強制連行・拉致された抑留者である。ポツダム宣言第9条に明白に違反する行為でもある。
こんな極悪非道・ソ連が東京裁判の判事席の一角を占め、日本を裁いていたのだ。

ソ連政府は1945年8月に「9898号命令」なるものを出した。労働に耐えうる日本人50万人をソ連領内に連行する命令だった。抑留者は、ソ連各地及びモンゴル領内の収容所も含めて約2000箇所に分散抑留された。

ソ連軍に拉致され抑留された日本人の日本への引き揚げは、アメリカの仲立ちでようやく1946年12月に始まった。そして1947年12月までに約20万人が引き揚げた。
日本の外務省は引揚者から聞き取り調査を行い、各地区の収容所数及び残留人員、死亡人員をまとめた。それが1947年12月1日現在の「ソ連地区収容所掌握概況表」であり、それによると死者約7万、残留人員約48万人となっていた。これらを帰国者と合計すると実に75万人にもなるが、それでも実際よりもかなり少なすぎる数だったのだ。
ポツダム宣言第9条では以下のことが書かれている。

ポツダム宣言第9条

日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし

ソ連はこの第9条を破り、武装解除した日本兵を抑留し、強制労働させて、数十万人とも推定される日本人を死に追いやったわけだ。
武装解除した軍人たちを日本に送還するどころか、ソ連政府は多くの人々を銃殺した。ソ連は日本人の「戦争犯罪」を裁き、幾多の戦犯を仕立て上げ、処刑した。事実無根の罪を自白させるために拷問が行なわれた。1951年、吉田首相兼外相は国連総会議長に文書で以下のような訴えを行なった。
  • 容疑者は脅迫、絶食、殴打、睡眠妨害、その他の拷問によって供述を強要された。
  • 拳銃で威嚇されつつ、木銃で数十回も殴打された。気絶すると水をかけられ、蘇生すると再び拷問を受けた。
  • 裸体にされた上、電線で束ねた鞭で殴打された。
  • 陰部を蹴られ、頭をコンクリート壁にうちつけられて失神させられること数度に及んだ。
  • これさえも実際の拷問の凄まじさを十分に表現していないといわれる。
ソ連との関係において、どれほどの日本人が、どれほど不条理な死と困難に遭遇したかを日本人は絶対に忘れてはならないはずだが、これらのソ連の恐るべき残虐行為は、不思議なことに日本ではあまり論じられていない

  ロシア・ソ連の蛮行
  ソ連の人道に反する罪

規模こと全く小さいが、イギリスもソ連と同じように終戦後も日本兵を帰還させず、強制労働をさせていた。
イギリスの例もソ連の例も、明白な捕虜虐待、しかも戦争終了後の虐待だから、さらに悪質である。
日本が降伏したのは、連合国がポツダム宣言を誠実に守ることを信じていたからだが、その約束を破り、

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参考文献 歴史年表