「パール判決書」に対する波紋

「日本無罪論-真理の裁き」が出版される前に、すでに欧米の法曹界・言論界において、このパール判事の「少数意見」(パール判決書)が非常な波紋を呼んでいた

  パール判決書

主なるものを拾い上げてみると、1950年、英国枢密院顧問官で、政界の元老であるとともに国際法の権威であるハンキー卿が「戦犯裁判の錯誤」を著し、「裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを、私は全然疑わない」とはっきりと言明して、いくたの慣習法や実定法や歴史的事実とパール判決の内容とを照合しつつ、戦犯裁判そのものに根本的な疑問符を投げかけるとともに、東京裁判の不公正を衝いている。
英法曹界の重鎮であるF・J・P・ビール氏が「野蛮への接近」という著書を著し、戦争と処刑に関する古今東西の歴史的考察を行い、東京とニュルンベルグとにおいて行われた二つの裁判は、原告は「文明」であると僭称しているが、実は、戦勝者が戦敗者に加えた野蛮時代の復讐行為の再現に他ならないことを明らかにした。
さらにイギリスでは、国際法で有名なW・フリートマン教授、国会議員でありかつ王室弁護士であるR・T・パジェット博士などのパール支持論が優勢を占め、ついにロンドンhの世界事情研究所監修「世界情勢年鑑」(1950年版)には、東京裁判を解説し、パール判決が正論であることを裏付けた
一方、アメリカでも、東京裁判に関する批判と反省の論争は活発に行われた。
チャールズ・ベアート博士は、歴史学・政治学の泰斗として有名だが、「ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究」という著書を著し、その中で、「日本が真珠湾を攻撃する数ヶ月前に、ルーズベルトはアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令した」と発表し、日米開戦前夜におけるパール博士の指摘した点を裏付けた
また、アメリカ最高裁のウィリアム・O・ダグラス判事は、東京裁判の被告らがなした大審院への再審査請求事件に対し、1949年6月意見書を発表したが、その中でパール判決を支持し、「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外の何物でもなかった」と批判している。
さらにモントゴメリー・ベルジョン氏の「勝利の正義」、フレダ・アトレイ氏の「復讐の高い代償」といった東京裁判に関する著書が相次いで現れ、非常な売れ行きを示して、ジャーナリズムの話題をさらった。これらはいずれも東京裁判に対する批判で、随所にパール判決が引用されている。
またマンレー・O・ハドソン判事は、その著「国際裁判所の過去と将来」において「国際裁判所の過去と将来」において「政治機構に関してどのような発展が行われようとしているにせよ、国際法の及ぶ範囲を拡大して、国家もしくは個人の行為を不法とし、これを処罰する司法作用を包含させるには、現在はまだその時機が熟していない」と述べている。
オランダ、フランスなどにおいても、この議論が盛んに行われ、甲論乙駁、ごうごうたる激論が戦わされた。1961年のオランダの法律雑誌は、東京裁判に関するパール博士の論文を連載した。

パール博士が日本の法律家に向かって、今世界に巻き起こっている戦犯論争に対して、なぜ沈黙を守っているのかと、奮起を促した理由がわかろう。

当時、日本の新聞には、どうしたものかほんの数行をもって、「インド代表判事のみが、少数意見として全被告に無罪の判決を下し、異色あるところをみせた」程度の記事しかのらなかった。しかし、ヨーロッパ諸国においては、このパール判決がビッグ・ニュースとして紙面のトップを飾り、大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こした。そしてフレンド派などのキリスト教団体や、国際法学者や平和主義者の間に非常な共感を呼び、これらの論争が紙面を賑わせた。
当時の日本の新聞や雑誌が、これを取り上げなかったのは、占領下の検閲制度によるものとしても、その後独立し、言論に自由すぎるほどの自由が与えらてからも、日本ではいっこうにこの問題が問題とならず、国際法まで無視した不公正なる判定を、そのまま鵜呑みにして、占領政策の宣伝を額面どおりに容認したまま今日に至っているのは、いったいどうしたことであろうか。

裁いた側のイギリス・アメリカにおいて、東京裁判の批判が盛んに行われたことは、一見奇異の感を抱かせるが、むしろこれは、彼らの批判精神が健全であることを意味するものであろう。ことに英国においては、法律学者や文化人の間に、激しい論争が戦わされただけでなく、その関心は一般市民にまで及んだ。
しかるに、日本のジャーナリズムはほとんどこれをこれを取り上げようともせず、法律化も文化人と称する人々も、むしろ「裁判」の結果を当然の帰結として受け入れ、あるいは死者に鞭打つごとく、いたずらに、過去の自分たちの指導者を責めることのみに急であった。
自国の歴史を侮蔑し、他を責めることによって、自己の保身に汲々たる知識人がいかに多かったことか。


日本の独立は正式に認められながらも、当時まだ巣鴨プリズンには約800名のBC級戦犯が幽閉されていた。その中には無実の犠牲者も少なくなかった。シベリアには「戦犯」という名において、幾十万というおびただしい数の日本人が鉄鎖につながれ、重労働にあえいでいた。この人々の99パーセントまでは、いったい戦犯の名に値するものであったろうか。支那共産党治下においてもまた然りであった。これらの人々の家族は、あの敗戦直後の廃墟と窮乏の中で、どんなに耐えがたい屈辱と悲惨な生活を続けてきたことであろうか。
このいちばんの被害国である日本において、政治家も法律家も学者インテリもジャーナリストも、戦犯問題を真正面から取り上げようとせず、むしろこれらの気の毒な同胞に石を投げるような態度に終始していたということは、今日から考えても、日本民族の恥辱である。

ちょうどこの年(1952年)、パール博士は再度日本を訪れたのであるが、この悲しむべき日本の事情を看取し、大阪の弁護士会館で、法律家を前に訴えた。

  大阪弁護士会館での訴え(全文)
  パール博士2度目来日

せつせつとして、博士が日本の法律家に訴えた言葉は、そのまま、現在の時点においても十分傾聴に値しよう。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表