金門砲撃

1958年8月より、支那の共産党軍が台湾(国民党)軍に加えた攻撃。
アメリカは1953年の朝鮮戦争休戦協定締結の後、台湾を「反共のとりで」にしようと蒋介石政権と「米華相互防衛条約」を結んだが、金門・馬祖地域は条約の対象に含まれてはいなかった。そこで、金門島を攻撃すれば、アメリカが台湾をどこまで本気で防衛しようと考えているかわかるため、支那共産党はこの攻撃を実行した。これに対してアメリカは第7艦隊を急派し、台湾を支援、ソ連の支援を受けた支那共産党と対峙した。
金門島に撃ち込まれた砲弾は計47万発におよんだが、アメリカが台湾に武器を供与すると戦況は一転し、砲撃は徐々に収束、1979年1月、支那共産党側が一方的に停戦を発表し戦闘は終結した。

この攻撃は台湾海峡有事により、支那共産党が進めていた『三面紅旗』(社会主義建設総路線、大躍進、人民公社)への大陸内部の不満を転換させる狙いもあったと考えられる。人民の目を外に向けさせ、国内の団結を図ろうとしたのだ。
アメリカの台湾への支援で金門攻略は失敗するが、「全民武装」によって再び求心力を高めていく毛沢東は文化大革命に向かう。

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