パール博士四たび来日

パール博士は清瀬一郎、岸信介両氏の招きに応じて昭和41年10月1日、四たび来日され、日本国民に非常な感動を呼んだ。博士はすでに齢80歳の高齢で、そのうえ前年に胆石の手術を受けたばかりである。羽田空港に降り立った博士は、よろめくように田中正明氏の肩を抱きしめ、しばらく話そうともしなかった。握りしめたその手は、痛々しいほどやせ細っていた。
10月3日の尾崎記念会館におけるあの感動的な講演会では、田中氏の肩によりかかって聴衆に合掌したまま、ついに一言も発せずして会場を去った。
その翌日、パール博士は電話で田中氏を呼び、カバンから二つのコピーを取り出して田中氏に手渡した。
「これをお前に渡す。どのように利用してもかまわぬ。私はインドを発つとき、日本の国民に訴えるつもりでこれを用意してきた。しかし私の健康は、壇上からこれを発表するにはあまりに衰弱しきっている。どうか日本語に訳して、日本の人々に伝えてくれ」
その一つには「平和の条件」という題名が付けられていた。
博士は10月12日、日本を去った。その前夜、故下中弥三郎翁につながる同人により、椿山荘において、さよならパーティーが開かれた。博士は、博士を敬慕する約200人の人々を前にして、日本における最後のスピーチを行った。
子のスピーチにおいても、博士はことば鋭く東京裁判の欺瞞性を突き、平和が権力の行使や闘争によって得られるものではなく、正義の実が平和を勝ちうるのだと強調した。いまやあなた方を裁いた国々も、あなた方を注目している。私は日本を愛す、日本の美しい伝統をますます発揚し、その上に揺るぎない”独立”を確立してほしい。そのためにはイデオロギーや利害を超え、民族として団結することが必要である、と説いた。

パール博士は、東京や京都で日本の秋を楽しみ、12日羽田発で帰国予定であった。朝日新聞記者がたまたま宿舎の京都国際ホテルに博士を訪ねた際「日本の皆さんに」というメッセージを託した。その抄訳は次のとおりである。

日本の皆さんへ

私がこの老齢、この健康で今度日本にまいりましたのは、日本のみなさんに対する私の敬愛の念を親しくお伝えするとともに、皆さんに東洋精神の尊厳さを再び確立していただくようにお願いしたいからでありました。東洋は今、大きな政治的ルネッサンスを迎えようとしており、東洋の諸国は日本に注目し、日本の奮起を期待しているのです。
現在、世界中で西洋化が進行しています。この西洋化は進歩に必ず付随する現象でしょうか。それとも、古代文明の例が示すように、崩壊の兆候にすぎないものでしょうか。ギリシャ、バビロン、支那などの文明の歴史を大観してみると、文明の発達を測る基準は、領土の拡大に見られる環境の征服や、技術の進歩にみられる自然の制服ではないことが証明されていると思われます。
われわれの聖者マハトマ・ガンジーは、この西洋文明の宿命を予見しました。そして、インドがみずからを救おうとすれば、現代の西洋の技術と西洋の精神を排斥しなければならない、という結論に達したのでした。この精神のシンボルが糸紡ぎ車(カダール)です。彼はインドのすべての男女に、自国産の面を手で紡ぎ、その意図を手織りにした綿布を身につけるように説きました。この手紡ぎこそ、インド国民の熱意とエネルギーを、物質的行動面から精神的行動面へと切り替える必要性の象徴だったのです。
大英科学振興協会会長サー・アルフレッド・ユーイングが1932年の総会で、次のような発言をしています。「科学は確かに人類に物質的な幸福をもたらした。だが、倫理の進歩は機械的進歩に伴わず、あまりにも豊富な物質的恵みを処理できずに人類は戸惑い、自信を失い、不安になっている。引き返すことはできない。どう進むべきであろうか」と。
われわれすべてが当面しているのと同じ悩みを表現した感動的な言葉です。産業化と民主主義という新しい推進力は、全人類の利益のために新興勢力が自由に活動できるような、全世界を売って打って一丸とした社会を建設するのに用いられるでしょうか。それとも、われわれはこれから、史上に比を見ないこの強力な新しい力を、大昔から存在している戦争、部族主義、奴隷制度などに悪用して、全人類自殺の方向に向かって行くのでしょうか。

日本の青年に

自由の国、日本の青年の皆さん。あなた方もこの質問に答えなければなりません。いや、貴重な伝統という財産を持つあなた方こそ、この世界的問題に答える最大の義務があるのです。貴重な伝統という遺産といっても、輝かしい過去を想起するだけでなく、現在のあなた方の持つ潜在能力をも強く意識してほしいのです。
西洋の観察者の中には、すすで曇らせたメガネをかけて世界を見渡し、西洋化された表面だけを見、その下に燃えているその土地独特の火を無視して、自己満足している者が多くいます。つまり、わざと東洋の長所に目をつぶっているわけです。その連中の思い上がった意見を受け入れてはいけません。人種的劣等感は捨ててください。日本人は世界文明に創造的な寄与をしてきたのですから。
また、西洋の「分割して統治せよ」という政策を警戒してください。どんなに大切なイデオロギーのためであっても、分裂してはいけないのです。分裂しているおt、その場かぎりのことでも絶対的なことに見え、肝心の重要問題から注意がそらされます。現在、全世界にわたってイデオロギーの戦争が進行中です。この戦争に勝つためには、建設的理念を持ち、相反する国際的、文化的イデオロギーを調和させなければなりません。イデオロギーの相違を固執してはいけないのです。
現代は過渡期であり、未来は現代にかかっています。現代は、伝統的に相いれない東洋文化と西洋文化が接触している時代です。お互いの文明の価値を破壊し合うのではなく、相互に補い合うようにすることこそ、次の時代の主な仕事であるべきです。
若い日本の皆さんにお願いしたい。物質的に順応するだけではいけない。精神的に順応することが大切です。身近な仕事や目的に順応するばかりでなく、大局的なビジョンに基づいて仕事や目的を決めていただきたいのです。人類社会に対する高い使命に燃えて、人生の意義を十分に発揮していただきたいのです。

日本の若い女性に

新しい環境に順応するには、社会は新しい生命力を必要とします。そのために社会が最も期待をかけるのは、若い人たちの中でも女性、つまりあなた方です。
現在のあなた方は、知的にも道徳的にも最も感受性に富み、もっとも重要力の大きい時期にあります。学校教育から、本物とにせ物を見分ける能力、お国の将来を形成していく力についての知識を得てください。特に、宣伝に惑わされない判断力を得てください。
わざわざこういうのは、宣伝が大衆を支配するために案出された実に警戒すべき手段だからです。ほとんどの大国が宣伝省を持ち、有能な人を宣伝大臣に任命していることでも、その強力さがわかります。宣伝の恐ろしさは、たえず感情に働きかけ、知らず知らずのうちに、自分の本性と矛盾することを信じ込まされる点にあります。
皆さん一人残らず、どんなことに出会っても、勇気と優しさと美しい魂とで、処理してください。皆さん一人残らず、「世界を歩む美女は何万といるが/どんなに飾り見せびらかしても、彼女の完全な美しさとは比べ物にならない」と、尊敬の念をもっていわれるように行動されることを願っています。


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参考文献 歴史年表