尾崎秀実

尾崎秀実は東大の大学院に一年行った後、朝日新聞に入社するが、この時点ですでに共産主義者になっていた。
尾崎はゾルゲ事件で死刑になるが、逮捕されるまでは近衛政権の中枢に食い込み、近衛新体制を支えるもっとも先鋭的な理論家として知られる。つまり、コミンテルンの影響力が権力の中枢まで食い込んでいたわけだ。

  ゾルゲ事件

尾崎をはじめとする「東大新人会」などの人脈は、官界にも入って行き、やがて「昭和研究会」という隠れ共産党員を含んだ近衛内閣のシンクタンクを組織して、近衛政権のブレーンに収まる。彼らはかつて大正デモクラシーに染まったリベラル派であるはずだが、わざと軍人を煽って支那戦線の拡大を図っていく。「上海だけではだめだ、南京をとれ」と煽り、南京を陥落させたら、「次は漢口作戦だ」と徹底して拡大路線の音頭取りまでやる。支那事変のはじめのころ、尾崎とその仲間たちが派手に戦線拡大をぶちあげ、その強硬さにむしろ軍人が乗せられていった。日本を泥沼の戦争に引き込む上で、彼らの果たした役割は決定的だった。彼らにしてみれば、支那事変を長引かせ、英米との戦争に結び付けて日本を破綻させることが「日本革命」の早道だったからだ。

独ソ戦が始まったとき、日本はドイツを助けてソ連を攻撃するか、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出するかという大きな岐路に立たされた。この北進論か南進論かという議論の中で、非常に強く南進論を主張したのが尾崎をはじめとする多くの言論人だった。

  独ソ戦

ゾルゲと尾崎にとって最も重要な任務は、日本を南進論に導くこと、そして日本の決断をいち早くソ連に伝えることだった。
ドイツがフランスを打倒した昭和15(1940)年夏から、独ソ戦が始まり日本が結局、南部仏印進駐を行った昭和16(1941)年7月にかけての1年の決断が、あの戦争の勝者と敗者を分けた。この1年の間、世界の列強はどこも自国の運命を決める最終決断をしたのだ。
ヒトラーがソ連を除く全ヨーロッパを支配下に置くと、日本は正常な判断を失ってしまう。それまでは米内内閣も支那事変の和平を成立させる方向で動いていたのに、「バスに乗り遅れるな」の掛け声とともに、再び近衛とともに尾崎らが官邸に戻ってきて三国同盟と南進に向かってひた走ってしまった

  日独伊三国同盟
  南進論と北進論

日本の判断を決定的に誤らせたのは、尾崎=ゾルゲ・グループをはじめとする、政権中枢に入った工作員たちによって国策が意図的にゆがめられ、謀略としてねつ造された情報である。そういう歪められた情報をもとにして、日本の最高指導部は現実とは全く違う世界へと誘導されたところがある。霞が関の中枢の中にもコミンテルンの生きのか方勢力がかなり多数入っていた。

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参考文献 歴史年表