支那の正史

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支那の歴史文化を作り出したのは、司馬遷が紀元前に世紀の末から前一世紀のはじめにかけて書いた「史記」である。この「史記」は、支那のいわゆる「正史」の最初のものであり、その体裁と内容が、攻勢の支那人の歴史意識と、支那人意識を決定した。
司馬遷が史記で採用した筋書きは、世界は原初から、司馬遷の生きた時代の通りの形をとっていたというものだった。

司馬遷が「史記」で書いているのは、皇帝の正統な歴史である。世界史でもなく、支那史でもない。第一、支那という国家の観念も、支那人という国民の観念も、司馬遷の時代にはまだなかった(こういう観念は19〜20世紀の国民国家時代の産物である)。

天命は、どんな時代でも天命だから、その天命を受けた正統の天子が治める天下には、時代ごとの変化があってはならない。もし変化があれば、それは天命に変動がある前兆になる。こういう論理のために、支那の歴史では天変地異(自然災害・異常現象)の記録が非常に重要になっている。

天変地異が起こるのは皇帝の「徳」にかけるところがあり、点が皇帝に不満であることを示すと解釈される。「徳」というのは道徳でもないし、倫理でもなく、「能力」であり「エネルギー」である。天変地異は、皇帝の体に備わっているエネルギーが衰えた証拠であり、天下を統治せよという天命を皇帝が果たしえないことを暗示する。

こうした「史記」の枠組みが固定して、それからあとの支那文明では、「史記」のとおりに書かなければ歴史ではないことになった。

司馬遷の「史記」以後、支那歴代王朝が「正史」を編纂したその最大の目的は二つあった。一つは、前王朝の正統な後継王朝であることの表明、もう一つが前王朝の興亡理由の分析である。





神話の黄帝と現実の武帝をつなぐものは「正統」という観念である。これを司馬遷が採用してから、「正統」は支那文明の歴史観の根本になった。支那文明の歴史観は「正統」の歴史だ。「正統」の歴史観では、どの時代の天下(いまでいう支那)にも、天命を受けた「天子」(皇帝)が必ず一人いて、その天子だけが天下を統治する権利を持っている。


本音の事実を記述するのではなく、皇帝の栄光を記述するのが建前。


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