現在、アンデスの町々の街頭で子供をあやしながら手芸品を売ったり、物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディオの女性を見かけるが、彼女らが生き残ったインディオの子孫である。 わずかの手兵でアステカ帝国を滅亡させ、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いた。 1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つインカ帝国があることを聞きつけたピサロは、180人の手兵と27頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。 エクアドルからボリビアまで広がるインカ帝国は、建国してまだ100年足らずだったが、道路、貯蔵庫、農業台地、鉱山都市と驚くべき偉業が遂げられていた。 ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。ピサロの従軍司祭の神父は通訳を通してキリスト教への改宗を要求した。それを王が拒否すると、司祭はピサロに王を攻撃するよう促した。司祭はまた、ピサロとその兵たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。 ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、非武装のインディオたちに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。 インディオたちの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切っただまし討ちだった。このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。 捕らえられたインカ帝国の王は、白人が欲しがっているのが黄金であるのを知っていたので、釈放してくれるならば部屋一杯の黄金を差し出すと申し出た。その大量の黄金が出された途端に、ピサロは約束を破って王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。 ピサロは王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、中央広場で斬首された。 1996年末の、ペルーの日本大使館公邸人質事件で、ゲリラ集団が名乗ったのもトゥパク・アマルであった。 インカ帝国から得た富を主因としたスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は1550年から1680年までの長きに及ぶと考えられる。 |
参考文献 | 歴史年表 |