秀吉は朝鮮を攻めたのではなく、目標はその先の支那(明朝)を手なずけることだった。 当時、すでにスペインはフィリピンのマニラ、ポルトガルはマカオ、オランダはジャワに着々と東洋侵略の拠点を構え、次の目標を支那に向けていた。秀吉はこれらの白人勢力の先手を打って支那に勢力を伸ばし、白人勢力に対抗しようとした。朝鮮出兵は明を討つための通路を確保するためのもので、朝鮮がこれを妨害したために戦いとなったに過ぎない。しかし、出征中に秀吉が急死し(1598年)によって企ては終わった。 秀吉は以下のような壮大な世界征服計画を持っていた。 支那の都である北京に日本の天皇を移す。自分の甥を支那の関白として据え、都周辺の百ヶ国を渡す。日本国内の天皇は新たに即位させ、日本の関白、九州・朝鮮の支配者を決める。秀吉自らは、まず北京に入り、その後、揚子江近くの寧波(ニンポー)に居を定める。そこから諸侯各位に、天竺(インド)を好き勝手に切り取らせる。 日本、支那、朝鮮、インドのすべてを総覧すべき位置に秀吉自身が身を置くという予定である。たんに支那大陸を支配するという話ではない。それを超えて東アジアを取り囲む東アジア全域に、一大帝国を築きあげようという構想であった。 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか。それは朝鮮を経由して支那を抑え、北京に天皇をおいて、自らは寧波(ニンポー)にいて天皇より高い地位で東アジア全域を見下ろす大帝国を築くという、壮大な構想の目的を実現するために出兵したのである。 秀吉の朝鮮出兵は結果においては悲惨な失敗だった。その外向きの外交の挫折が、内向きの守りの姿勢に転じて徳川政権が築かれた。 秀吉の朝鮮出兵は期せずしてヌルハチを助ける結果になった。ヌルハチは1619年に(支那軍)明軍を破り、8年後に彼の軍隊が朝鮮に侵入する。ヌルハチが国号を「清」と定めて、朝鮮を属国とするのはさらにその9年後のことである。 清(清国、清朝) |
参考文献 | 歴史年表 |