アメリカに連れてこられた奴隷の運命

奴隷船から荷揚げされた奴隷たちは、奴隷承認に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売り出された。奴隷承認は鎖で数珠つなぎにして町に乗り込み、目抜き通りで競売を行なった。奴隷たちは競売台に立たされ、品定めをされ、親子兄弟をばらばらにして売られていった。
当時のアメリカ人にとって、奴隷の競売は財産作りの重要な手段だった。後の南北戦争のときの南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博したものが多かった。
近代に入ってから、これほど大掛かりに組織的に200年にわたって人間の売り買いを行なってきた国は、世界広しといえどもアメリカだけである。
1860年、アフリカ人奴隷の総数は400万人になっていた。奴隷の大半は綿花生産の労働者として投入されていた。
奴隷たちの悲惨な実態は、ストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」で世界に知れ渡った。

当然のことながら、奴隷の反乱、暴動が多発し、失敗して殺された奴隷も無数にいた。1831年のナット・ターナーの反乱、1859年のジョン・ブラウンの武装蜂起など、有名な事件は氷山の一角にすぎない。


ナット・ターナーの反乱
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ジョン・ブラウンの武装蜂起(1859年)
1859年、熱狂的な奴隷解放主義者ジョン・ブラウンが、奴隷解放の革命を起こそうとして合衆国の兵器庫ハーパース・フェリーを襲撃した事件。アメリカの白人史観ではテロで片付けられるのだろう。(ジョン・ブラウンの乱が参考になります)。

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