日米和親条約(1854年)


  ペリー来航(嘉永6[1853]年)

前年に浦賀に来航したペリーは脅しどおり再び日本にやってきた。今回は、浦賀沖から羽田沖まで艦隊をまわし、横浜で交渉するよう江戸幕府に要求した。
そして、嘉永7年(1854)3月3日、日米和親条約が調印された。この条約により次のようなことを幕府は承認した。
  • 下田、函館の開港
  • 遊歩区域の設定
  • 薪・水・食料の供給
  • 外交官の下田駐在
  • 最恵国約款の承認
これにより幕府の鎖国政策は終了した。
アメリカに続いて、日本はロシア、オランダ、イギリス、フランスとも同じような条約を結ばされた

今回のペリー来航では、ペリー艦隊が下田に入港したとき、吉田松陰と金子重輔がボートでペリー船に近づき、乗り込むことに成功した。吉田松陰らは、外国に連れて行ってほしいとお願いしたが、ペリーは拒否し、追い返した。
当時は外国に密航することは国法で禁止されており、吉田らは自首して投獄された。

その後、吉田松陰は出獄し、長州藩の萩に松下村塾を開き、明治維新につながる逸材を多数育てることになる。

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参考文献 歴史年表