セポイの反乱(1857〜59)

1700年代、アメリカの独立革命とイギリスの産業革命が進行して、イギリスの重商主義的政策がぐらつき、東インド会社の経営にも影響が出てきた。そしてイギリスの商品は資本主義の形成によって、インド社会に大きな変化をもたらした。それまでイギリスはインドでつくられていた綿織物を輸入していたのに、今度はイギリスの商品がインドに殺到するようになる。綿製品の輸出国であったインドは、イギリスの綿製品を強引に交わされる側に回り、農村・家内工業は大打撃を受け、典型的な植民地農業国になってしまった。これに反発した大反乱がインドで起こった。
反乱は二年に及び、数十万のイギリス人が虐殺され、インド人も大勢殺された。これに懲りてイギリスの当時の仕方は用心深く陰険になる。そして、1877年にはビクトリア女王がインド皇帝を兼ねるようになって、セポイの反乱とアヘン戦争はつながっていく。

翌年ムガール帝国滅亡、イギリス、インドを直接統治領へ

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参考文献 歴史年表