徳川幕府滅亡(大政奉還、王政復古の大号令)

慶応2年(1866)に徳川慶喜(よしのぶ)が第15代将軍になり、朝廷では14歳の明治天皇が即位した。朝廷内部では討幕派が優勢となる。
慶応3年(1867)10月14日、慶喜は徳川家が幕府という形で政権を維持することはもはや不可能と悟り、征夷大将軍の地位を朝廷に返上した(「大政奉還」という)。慶喜は、天皇のもとで諸大名が集まる議会を作り、その中で最大の大名である徳川家の実質的な支配を続けることができると考えていた。
慶喜の意図を見抜いた薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は、公家の岩倉具視や長州藩の木戸孝允らと結んで、慶喜追放と領地没収を朝廷に働きかけた。
その結果、1967年12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発し、古代建国の出発点に立ち戻って天皇を中心とした新政府を組織することを宣言した。
こうして約260年にわたった徳川幕府は滅亡した。武士が政権を握る時代の終わりでもあった。

欧米列強の軍事力と、不平等条約に象徴される外圧に国を挙げて対応するには歴史伝統の中の権威である京都の天皇のもとに大名会議を開催して国論・国策を統一する必要があった。その点では将軍・徳川慶喜も公卿・岩倉具視も薩摩藩士・大久保利通も長州藩士・木戸孝允も幕臣・勝海舟も大きな相違はない。ただし、長州藩は幕府に対しては過激な攘夷論で敵対していたから徳川幕府とは食うか食われるかの状況にあった。そして、江戸の幕府首脳部に長州藩のみならず薩摩藩をも含んだ西南雄藩圧服論が台頭すると、それまでは幕府寄りだった薩摩藩の急進派は薩摩藩存亡の危機感を深め、土佐藩浪士・坂本竜馬の斡旋を得て聴衆と接近するようになる。その2、3年前には薩摩と長州は京都で戦っている。それが急転、手を握るようになった。

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参考文献 歴史年表