牡丹社事件(台湾出兵)

明治4年(1871)、宮古島(琉球)の住民が台湾南部に漂着したが66人中54名が台湾の住民に虐殺された(残り12人は逃げ帰った)。
これに対して、日本(明治政府になったばかり)は支那(清国)に抗議した。しかし、清国は「台湾は化外の地(皇帝の教化が及ばない地)であるから責任が持てない」と清国の領土ではないと主張し、事件はそのまま3年間放置されたが、明治7年(1874)、日本は台湾に出兵し、占領した大久保利通は北京に乗り込み交渉した。清が賠償金を支払うことになったので日本は撤兵した。当時の清国は正式に「義戦」と認め、日本軍の撤兵に際しては清国海軍は礼砲まで撃って見送った。

その後、明治28年(1895)の下関条約により清国は台湾を日本に割譲する。

  下関条約(1995年)

戦後の日本の政治家はとにかくゴタゴタを逃げたい、謝ってもいいからトラブルに巻き込まれたくないという腰抜けばかりだが、昔は大久保利通のように気概のある立派な人物がいた

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参考文献 歴史年表