壬午(じんご)政変(1882年)

日朝修好条規が結ばれたのち、朝鮮では排外主義の大院君派が後退し、国王の妃である閔妃とその一派が中心となって近代化に動き出した。

  日朝修好条規

それまで鎖国攘夷政策の朝鮮が日朝修好条規を機に朝鮮政府内でも開国派が影響力を持つようになり、日本にとっても喜ぶべき状況が生まれた。

ところが明治15(1882)年に入って、状況が一転する。軍制改革で廃された古い軍隊の兵が暴動を起こし、これを大院君が扇動して、閔妃は命からがら逃げるという事態が出現した。また、日本人教師を含む多くの日本人が殺され、日本公使館も襲撃され、館員7人が殺害された。朝鮮軍の兵士が暴動を起こしたのに乗じて、李朝内における攘夷派の大院君がクーデターを起こしたのだ。これを壬午政変という。
日本公使は命からがら朝鮮を脱出した。一国の外交官を殺害し、大使が命がけで脱出せねばらないということになれば、これは今も昔も戦争に発展しかねない大問題である。
だが、この当時の日本はあくまでも話し合いでの解決を目指し、結局、日本と朝鮮の間で賠償条約(済物浦[さいもっぽ]条約)が結ばれたため一応一件落着した。その内容は、賠償金50万円、公使館警備に日本の兵隊を若干置くこと、謝罪使を日本に寄こすことなどだが、日本は10年割賦の賠償金支払いで最初の二年間だけ受け取ると、残りの40万円は「改革を進める資金にしなさい」といって朝鮮政府に返還し、そのうえ汽船や大砲も贈った。
それに引き換え清国の動きはあざとい。
暴動を口実に、清国は袁世凱の軍を派遣し、反乱は清国軍に鎮圧され、首謀者の大院君は逮捕され、清国の軍艦で天津(支那)へ連行された。事実上、朝鮮政府は、清の支配下に置かれることになったのだ。この政変ののち、3000人の軍隊を朝鮮にとどめたままだった。その清国の下で、閔妃一派は近代化路線を捨てる。日本式の改革をすべて取りやめ、清国と同じような制度に変えるとともに、清国が宗主国で挑戦は属国であるという関係を再認識し、新しい軍隊も司令官は清国の下に置かれるかたちになった。さらに清国は、日本が朝鮮へ進出することを邪魔するため、朝鮮に欧米各国と通商条約を結ばせてもいる
そもそも大院君は、開国派を打倒し、朝鮮の政策を清国寄りに戻そうとクーデターを起こしたのに、それを逮捕するというのだから、清国が朝鮮のことをどのように思っていたのかがわかる。

それから二年後の明治17(1884)年、今度は金玉均らがクーデター(甲申政変)を起こす。

  甲申政変(1884年)

 

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参考文献 歴史年表