日本は1922年2月、支那との間で、第一次世界大戦における対独参戦の結果、ベルサイユ講和条約においてドイツから承継した山東省の租借地などの権益を、半年以内に支那に返還するという条約を結んだ。すでに青島には日本人3万人が居住し、しかも1億5千万円もの投資を行っていたが、日本はその地を放棄したのだった。 なぜ日本がそこまでしたかと言えば、アメリカの圧力である。ワシントン会議で支那は山東省の権益の回収を訴えていたが、それを後押ししたのがアメリカだった。そもそも支那の主張はアメリカが立案したものだったのである。 この一件で、支那はアメリカの力を利用して権益を回復することを学んだ。そして侮日、排日の空気が大いに醸成されていったのだった。 日本はこのような歴史的背景下で、英米主導の世界体制に代わる東アジアの新秩序を模索し始めていく。それは英米との覇権ゲームというより、あくまでも生存権を求めるがための歴史の道行きだったと言える。 |
参考文献 | 歴史年表 |