関税特別会議(1925年)

当時、加藤孝明内閣の外相・幣原喜重郎は、ワシントン会議の線に沿って、支那大陸の利権の縮小方針をさらに進め、大正14(1925)の夏に北京で開かれた関税特別会議において、支那の関税自主権回復の要望に日本が協力する旨を日本全権に公表させ、支那側を驚喜させ列国側を愕然とせしめた。
日本の態度はあまりに支那に対して同情的だったので、アメリカやイギリスは「日本は列国に抜け駆けしている」「幣原外交は対支那協調破りだ」と非難した。
しかし、支那側の熱烈参道には反対できず、結局は日本の生命に追随し、関税自主権回復の決議案を可決せざるを得なかった。
関税自主権回復が遅れるのは翌年に馮玉祥(ふうぎょくしょう)のクーデターが起こり、支那側の全権団がすべて会場から消えてしまったためである。
当時の支那大陸は、無政府状態というほど正常が流動的で、文明国のルールを具体化する基盤がもろかった。
同じことは支那の治外法権の撤廃問題にも言える。租界をなくすことは支那の熱望であり、日本もそれを支持する姿勢をとったが、撤廃は時期尚早だった。当時の支那大陸においては各地の軍閥が独立を宣言し、勝手に人を裁き、殺していたので、全土での司法権の独立など期待できなかった。まず、列国は支那の政情安定を待つしかなかった。治外法権の会議も、同じく、馮玉祥(ふうぎょくしょう)のクーデター流会になってしまった。

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参考文献 歴史年表