支那のチベット侵略は1950年の北朝鮮の韓国侵入以前から開始された。 支那共産党軍(「人民解放軍」という名前が付けられている)が昭和24年(1949)にチベット軍の前哨基地があった東チベットのデンゴに入る。そして10月、東チベットを襲い、占拠した。 翌1950年に支那共産党はチベットに17条協定への署名を強要した。そこにはチベットは支那の大家族に復帰するなどと事実上チベットが支那の一部と明記されていた。さらに甘言として、チベット軍は人民解放軍(支那共産党軍)に吸収されるが、チベットの仏教、信仰、風俗習慣は尊重され、僧院も保護されると明記されていた。この協定に対してチベットの指導者達の意見は分かれたが、1951年9月、結局は毛沢東のチベット支配は象徴的なものに留まり、僧院も仏教もダライ・ラマの神聖さも侵されはしないだろうという希望的観測から、毛沢東に17条協定承認の手紙を送った。 しかし、人民解放軍(支那共産党軍)は17条協定をすぐに反故にして、寺院の9割以上を破壊し、財宝を奪い、仏教を否定し毛沢東主義、共産主義の学習を強要した。さらにチベット人からチベット語を奪い、支那語を習わせた。子供へのチベット語の命名を禁じた。 人民解放軍(支那共産党軍)の兵士をはじめ、多くの支那人がチベットに送り込まれた。支那人男性とチベット人女性の結婚は許すがその逆は許されなかった。こうしてチベット人は宗教と言語と民族の地を奪われつつある。 チベットは歴史的に見ても支那の領土ではない。 1950年、数百万の”人民解放軍”が東チベットに侵略、この地方の共産化と植民地化を推進した。現在のチベット独立運動は、辛亥革命以来のこのような欺瞞と侵略政策の当然の帰結である。 |
参考文献 | 歴史年表 |