昭和45年(1970)11月25日の昼前、三島由紀夫と彼が率いる「盾の会」メンバー4人が、東京の陸上自衛隊・市ヶ谷駐屯地に、東部方面総監を訪ねて面会した。そして「模造品」と偽って検問を通過させた日本刀で脅し、総監らを監禁。室外で異変を察した自衛官らは、総監の身の安全を考え手を出さなかった。三島は駐屯地所属の自衛隊員をバルコニー前に集合させるよう要求した。室外の幹部はこの要求を受け入れた。 三島は集められた千人ほどの隊員に向かって「自衛隊を否定している現憲法を改正するために決起せよ」と呼びかけたが、隊員の野次・怒号に妨げられた。彼は演説を止め、総監室で割腹自殺した。彼を介錯した「盾の会」の森田必勝も後を追った。残りのメンバーは総監らを解放し、駆けつけた警察に逮捕された。 第一報を受けた首相の佐藤栄作は、三島を「気違い」と評し、防衛庁長官の中曽根康弘も「狂気の沙汰」と非難した。自衛隊については「不測の事件に対し、冷静・適切に対処した」と評価した。 マスコミの反応も一律に「乱入者」を非難するものだった。 三島事件の論評・評論で「加害者」側だけが問題にされ、「被害者」の自衛隊の対応が問われなかった。政府は自衛隊をかばい、マス・メディアも同様だった。 自衛隊の最高責任者は防衛庁長官で、統帥者は総理大臣である。この両責任者が、首都防衛軍の最高指揮官を人質に取られ最高指揮所を占領され、その事態を「狂気」のせいにし、「迷惑千万」として片付けようとする。その態度は厳しく糾弾されるべきだろう。隣室には、非常の場合、総監に代わって命令を発すべき高級将校が数人いたが、討伐命令を出す者はいなかった。自ら武器を持って侵入者を撃ち殺そうとする者もいなかった。 自衛隊としては、相手がだれであれ、侵入者・占拠者を撃ち殺すべきだったのにそうできなかった。 |
参考文献 | 歴史年表 |