支那の歴史を考えるとき、かなめになる大変大事な観念である。
「朝」というのは、毎月決まった日に朝廷で行なわれる朝礼のこと。「朝廷」というのは、文字通り、朝礼が行なわれる庭のことで、皇帝の宮殿の正殿の前の広場が朝廷である。
「貢」という字は、両手で物を持って捧げる様子をあらわしている。
つまり、朝礼に出席して、持参した手土産を皇帝に捧げること、これが「朝貢」である。
「朝貢」の意味は、現代の日本では、まったく誤解されている。誤解の原因は、主として、現在の支那人の政治的宣伝のせいだが、これに惑わされしまった日本の東洋史学界も悪い。
以下の点が重要である。
- アジアの諸国あるいは諸部族との間だけのものではない。ヨーロッパ人やアメリカ人でも、手土産を持って皇帝に挨拶に来るものは、みな朝貢使節である。
- 国際関係の表現ではない。朝貢は、あくまでもそのときの皇帝個人に対して、外国の君主や部族長が、個人的に敬意を表す手続きに過ぎない。
- 支那にとって外国から皇帝のもとにやってくるものばかりではない。支那内、支那外を問わず、首都の地域の外の実力者が、皇帝に贈り物をして、それによって支持を表明する行為が朝貢と呼ばれた。
- 支那に対する服属関係の表現などではない。朝貢とは友好関係の表現であり、皇帝の支持者・同盟者であることを示すものである。むしろ皇帝から大なり小なり独立した勢力の代表者である証拠である。
- 朝貢と貿易は全然別のこと。支那の皇帝が朝貢を歓迎するのは、それが自分の格を高めるからである。
こうした性質の朝貢という現象を、日本の東洋史学者がなぜ支那に対する形式的な服属関係などと誤解しているのかというと、支那の正史が、本音の事実を記述するのではなく、皇帝の栄光を記述するのが建前だからだ。だから朝貢についても、正史の記録の形式は、皇帝の徳を慕って、外国の君主たちが自発的に臣従を誓った証拠であるように書くことに決まっていた。支那の官僚たちが皇帝にごまをすり、人民にひけらかす宣伝文句にすぎなかった。ところが、日本の東洋史学界では、こうしたいわゆる「朝貢関係」を拡大解釈して、「朝貢冊封体制」というネットワークが、古くから東アジアに実在し、それによって支那を中心とした国際関係の秩序が保たれていた、というような説が通用している。これはとんでもない間違いである。
「朝貢冊封体制」というのは、第二次世界大戦後の日本で発明されたことばである。 |