汪兆銘

日本留学中に中国革命同盟会に参加。帰国後、共産党との第一次国共合作を推進するが、その後、反共に転じ、国民党内で蒋介石と対立、協力を繰り返す。1938年、重慶を脱出して1940年、日本の後押しで南京政府を樹立、主席に就任した。1944年、名古屋で病死。

日本の法政大学に留学中、孫文らの中国革命同盟会に加入した。
1911年清朝の摂政醇親王の暗殺を企てたが失敗し投獄されるも辛亥革命により釈放,
第2革命失敗後フランスに亡命、1916年帰国後、国民党の指導者の一人となり中央執行委員、宣伝部長をつとめた。1926年中山艦事件で蒋介石と対立して外遊、国民政府の武漢進出とともに帰国し、国共合作の武漢政府に参加、統一国民政府擁立に努力し同政府の要職についたが、広州コンミューン事件で責任を問われ再び外遊した。帰国後、軍閥と手を結び反蒋運動を展開、1932年蒋と妥協して、行政院長兼外交部長となり日本と交渉に当った。
西安事変後、蒋が抗日民族統一戦線に傾くと、対日和平を唱えて抗戦派と衝突し、ハノイに脱出。
1940年南京に国民政府を擁立した。
民衆の批難を俗びつつ,1944年入院先の名大付属病院で死去した。
戦後は、漢奸の代表的人物として支那政府から


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参考文献 歴史年表