支那人移民禁止法制定(1882年)

19世紀半ばのゴールドラッシュにより、たくさんのチャイニーズ・クーリー(支那人の下層低賃金労働者)が支那からアメリカ西海岸にやってきた。
アメリカの東部ではアフリカから黒人を奴隷として連行してきて綿花栽培などをさせていたが、支那からは大量の移民を受け入れて鉄道施設や鉱山開発をやらせた。
貨物船の一番下の階に押し込まれ、死ねば海へ投げ込まれるという非人間的な扱いを受けてアメリカにたどり着いた点では支那人も黒人も変わりはなかったが、西部に来た支那人たちは給料を貯め、商店を開いたり、共同で農地を買ったりした。

アメリカ大陸に来た白人は初めの頃はイギリス人、フランス人、オランダ人などが主流で、白人の中でも当時は「一流国」の人間が多かった。後から来たのはイギリスやロシアに支配されていたアイルランド人や東ヨーロッパからの白人が多く、彼らはアメリカに渡っても東部はすでにいる白人たちが居座っていた。そこで後から来た白人たちはやむなく西へ向かったのだが、そこには支那人がすでに暮らしていた。白人移民の自分たちは資産を何も持っていないのに有色人種の移民である支那人はすでに店を経営していたり、農地を持っていたりしていたのだ。
これに怒り狂った白人たちは支那人の移民たちに暴力をふるい始めた。支那居住区が襲撃されるようになり、多くの支那人が殺された。支那人の村を集団で襲って皆殺しにして農地を強奪することまで起こった。
当時の支那政府(清朝)は知らんぷりだった。満州人の皇帝からすれば、被征服民族である支那人で国を捨てた者など気にもしなかったのである。そのためアメリカの白人たちは復讐されることなく支那人を思うまま殺すことができ、無害な最下級労働者にすることができた。

そして、1882年に、アメリカでは支那人移民を完全に禁止する法律が制定された。この法律により支那人はアメリカに移住できなくなった。
この法は1943年に廃止されるまで続いた。支那がアメリカの同盟国になったためである。

移住禁止になった支那人に代わるようにして19世紀末ごろから、日本人がアメリカに移住するようになる。

  日本人移民増加(18世紀末から)


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参考文献 歴史年表