清(清国、清朝)

徳川家康が死んだ1616年ごろヌルハチ満州族の勢力を伸ばして支那(当時は明朝)から独立し、満州の地に金(後金)という国を建てた。
ヌルハチの息子のホンタイジは朝鮮を征服し、1636年に年号を清(大清)と称した。
その子供の順治帝が北京を攻め落として明朝を滅ぼし、支那全土を占領した
つまり、清国というのは満州族の王朝である。(ここを理解していない日本人、外国人が多い)

支那大陸には支那帝国というものは古来あったためしがなく、あったのは常に王朝だけである。蒙古人が征服すれば蒙古人の王朝が建てられ、満州人が征服すれば満州族の王朝になる。支配している民族がまったく違うのである。

満州族の王朝である清朝は長く支那の土地を支配するが、19世紀半ばになると西欧列強の脅威にさらされることになる。とりわけ、1840年から起こったアヘン戦争、1957年から起こったアロー戦争でイギリスに破れ、不平等条約の締結を強いられ、次々に西欧列強の進出を許し、植民地化されつつあった。
19世紀末になると、やりたい放題の外国人たちに不満を募らせた民衆が結集し、「扶清滅洋」(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げて清国軍とともに北京にいた外国人を取り囲むという事件(義和団の乱)が起こった。
このとき、日本をはじめとする列強8ヶ国が自国民の保護を理由に軍隊を派遣した(北清事変)。

  北清事変(義和団の乱)(1900年)

反乱はすぐ鎮圧されたが、ロシアの軍隊が混乱に乗じて満州に侵攻し、満州全域を占領してしまった。
日米英は抗議するが、ロシアは居座り続け、さらに南下して北朝鮮に入ろうとした。ロシアの朝鮮半島への南進は日本の脅威であり絶対に阻止しなければならないということで日露戦争が勃発したのである。

  日露戦争(1905〜1906年)

日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約によってロシアを満州の地から追い払い、満州を清国に返還した。その代わりにロシアが持っていた権益の一部を譲り受けて南満洲鉄道(満鉄)の経営を始めた
その後、平和な状態が続いていたが、1911年(明治44)に辛亥革命が起こると情勢は一変した。

  辛亥革命(1911年)

翌12年には孫文を臨時大統領とする中華民国(国民党政府)が樹立され、これによって清朝第12代皇帝である宣統帝(溥儀)は退位させられ、清朝は崩壊する。

  中華民国(1912〜)

実は辛亥革命とは革命などではなく、満州族を滅ぼして漢民族(支那人)を興す(滅満興漢)という満州族からの支那人の独立運動だったのである。

この後は、満州事変満州国建国と続く。

清国の歴史

1616年ごろ ヌルハチが金(後金)を建てる。
1636年 ヌルハチの息子のホンタイジは、朝鮮を征服した後、国号を「清(大清)」と称する。女真の民族名を「満洲」に改めた。
1644年 太宗の息子の「世宗」のとき、清は万里の長城を越えて北京を占領し、「明」に代わって支那も支配するようになる。
1900年 義和団の乱(北清事変)
1911年 辛亥革命
1912年 中華民国(国民党政府)が樹立。清朝第12代皇帝である宣統帝(溥儀)は退位。清朝は崩壊した。

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参考文献 歴史年表