甲申(こうしん)政変(1884年)

壬午政変の際に日本大使館に危害が及んだことに対する謝罪のため日本に金玉均たちが派遣された。彼らは発展した日本を見て、朝鮮も早く近代化しなければ危ういと理解し、開国派に転じた。

  壬午政変(1882年)

このころ白人のアジア侵略は極東に及んでいた。朝鮮が近代化しなければ南下を続けるロシアに奪われて日本が危険にさらされる。このため、日本は開国派を支援することになる。
福沢諭吉は金玉均たちの独立党を私財を投じて援助した。福沢諭吉は漢城(ソウル)で朝鮮初の新聞を発行させたり、朝鮮からの留学生を慶応義塾に受け入れ、金たちにも大金を貸して協力した。

  独立党と事大党

明治17年(1884)、清国とフランスの間で清仏戦争が始まると、清国は朝鮮にいた兵士の多くをベトナムに送った。その機会に乗じて、金玉均ら独立党の人々は、12月にクーデターを決行した。金玉均らは日本の公使館守備隊の協力を得て、国王親衛軍の一部によって6人の大臣を暗殺し、新政権を樹立した。この独立党新政権は、清国からの独立、門閥廃止、宦官の廃止などを掲げた。
しかし、国王(高宗)や閔妃の事大党は清国に兵隊を送るよう要請した。これを受けて清国の袁世凱は1500名の軍隊を率いて軍事介入したため、独立党新政権はつぶされ、クーデターは失敗に終わった
壬午政変に続きまたしても清国が朝鮮の内政問題に介入したことになる。しかもそのとき、壬午政変と同様、日本公使館が襲撃され、焼き払われ、婦人を含む多くの日本人が惨殺された。これを甲申政変という。
金玉均や朴泳孝たちは日本に亡命した。
福沢諭吉はこの事件の後、「脱亜論」を唱え、「悪友(支那や朝鮮)と交わるな」と言った。支那文明の下にとどまり、近代社会へ参加しない清国と朝鮮に対する批判だった。
この事件を通して日本がわかったのは、日本が朝鮮の独立を願うならば、清国との戦いは避けられないということだった。朝鮮が列強を侮る清国の支配下に置かれ続け、事大派(攘夷派)が政権にいる状態が続けば、近いうちに列強の植民地になるのは目に見えていた。そうなると日本も危うい。

伊藤博文は、「日本と清国が争っているとロシアに得をさせるだけだ」と考え、清国とは天津条約を結んだ。そこでは「4ヵ月以内に日本も深刻も挑戦から軍隊を退く」「兆戦は自分で治安を守る。朝鮮の軍隊の訓練は、清国も日本も関わらず、第三国に任せる」「もし、朝鮮に軍隊を出す事態が起こったら、日本と清国はお互いに文書で知らせ合ってから出す」と決めた。
日本は条約どおり撤兵したが、清国の軍人・袁世凱は帰国せず、密かに軍隊を数百人残したという。

一番問題だったのはロシアが朝鮮に触手を伸ばしてしまったことである。清国は、日本の朝鮮への進出を邪魔するために朝鮮に欧米各国と修好条約を結ばせていたのだ。ロシアの朝鮮進出を招いた元凶は清国にあった。
ロシア公使のウェーバーは有能な男で、朝鮮におけるロシアの影響力が拡大し続ける。



反日史観では、この甲申政変は、「日本の支援を受けた朝鮮の開国派が起こしたクーデーターに清国が介入し、鎮圧したため、日清関係を悪化させた」という点でしか語られていないため、この政変の真の意味がわからない。

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参考文献 歴史年表