江東六十四屯虐殺(黒竜江の悲劇)

「黒竜江の悲劇」ともいわれる。

「江東六十四屯」とは北満・愛軍の黒竜江対岸の地域のことで、満州人と支那人が住んでいた。黒竜江以北をロシア領とした1858年のアイグン条約でさえもこの地は清国領として満洲人の永久居住を認め、ロシア人の侵犯を禁止していた。

義和団事変が起こると、ロシアは東支鉄道保護の名目で満州に大軍を送り、全満洲を占領した。満州でのロシア軍の行動は横暴を極め、虐殺を行なった。
この満州侵攻の前、ロシア軍は江東六十四屯に侵攻、そこの住民を駆逐し、5〜6千人の罪なき民間人を虐殺しまくり、死体を黒竜江に捨てた

1902年にロシアと清国の間に満洲還付協約が結ばれたが、ロシアに占領された黒竜江以南の満州が清国に返還されたときにも江東六十四屯は返されなかった。日露戦争でロシアが敗れると清国は江東六十四屯の返還を求めたが、ロシアはロシア軍民を移住させ、すでにロシア人が住む土地となったので返せないと拒否した
戦後北方領土から日本人を強制的に追放して自分の領土と言い張るソ連と同じやり方だった。
清朝滅亡後には張作霖政権も返還を求めた。ソ連は「カラハン宣言」を発して返還を声明したのだが、実際にはソ連は交渉に応ずることなく今日でもロシア領である。

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参考文献 歴史年表