北方領土
(歯舞島、色丹島、国後島、択捉島)


安政2年(1855)2月7日(2月7日は北方領土の日)の日露通商条約、明治8年(1875)の千島樺太交換条約、明治38年(1905)の日露戦争後のポーツマス条約を経て、千島列島すべて南樺太は日本の領土である。この領土は大東亜戦争時も有効だった。

ところが、昭和20年(1945)8月に日本がポツダムを宣言受諾した後、あくどいソ連満州や南樺太に日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻、続いて北方4島まで占領してしまった。

  日ソ中立条約の一方的破棄
  北方領土占領

ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していない。このため、日露間の条約上は、千島列島・南樺太も日本の領土である。だから北方領土には千島列島と南樺太が含まれているべきであるのに、どういう魂胆だが知らないが、日本政府はそのことを主張しない。

北方領土の日ソ・日露交渉の歴史

1993年10月に、細川護煕とエリツィンが東京宣言に署名した。その宣言には、それまでの日ロ交渉で、両国間に存在する未解決の問題に領土問題があり、それは歯舞、色丹、国後、択捉の4島で、それらの島の帰属問題を解決した後、平和条約を結ぶということが確認されていた。
ところが、平成9(1997)年、首相だった橋本竜太郎は、経済同友会で講演し、日ロ関係を改善するため、「信頼、相互利益、長期的視点」という三原則を打ち出し、領土問題について「勝者も敗者もない解決」を目指すとのたまい、さらにこのことを理解するのに「50年かかった」などと馬鹿なことをほざいてしまった。「勝者も敗者もない解決」とは4島返還ではなく2島返還でよいということだ。この橋本竜太郎の売国奴的発言は、ロシアに重要な政治的メッセージとして伝わった。橋本はれ以前の日ソ、日露外交を完全に否定するようなことをやってしまった。

日本はそれまで北方領土に関しては3度大きなチャンスがあった。
最初は、1953年3月の、あの20世紀最大の虐殺者といわれたスターリンがくたばったときだ。この世紀の大虐殺者の跡を継いだフルシチョフは、1954年9月、日ソ国交正常化を呼びかけ、翌1955年に、ロンドンで日ソ交渉が開始され、1956年12月に日ソ共同宣言が発効した。しかし、領土問題については平和条約締結後に歯舞と色丹の2島を日本に返還し、残り2島については協議するとされた。
その後東西冷戦が激しくなるにつれ、ソ連は日本に強硬姿勢をとる。領土問題は継続交渉との合意にもかかわらず、解決済みだとほざき始めた。

次に1970年初頭に国際社会の変化によって突然ソ連は軟化した。1971年7月のニクソン政権による米中接近により孤立を恐れたソ連は日米間に楔を打ち込むべく、日本に接近してきた。1972年1月に、グロムイコ外相が日本を訪問した。そして、1973年の田中角栄の訪ソの際には、日本は北方領土とは2島ではなく4島の問題であるとソ連に認めさせることに成功した。

ベルリンの壁崩壊を受けて、旧ソ連は1991年に消滅した。新生ロシアは軍事力でアメリカに完全に劣り、経済は崩壊寸前だった。日本の援助が欲しかったエリツィンは1993年10月に日本を訪れ、北方4島が歯舞、色丹、国後、択捉であると、各島々を固有名詞で特定した。日本は4島一括返還の実現にさらに近づいたのだ。

ところが、上記のように1997年4月、橋本竜太郎がすべてをぶち壊してしまった。領土返還の保証もない状況で橋本はロシアにおもねり、日本の主張を展開することを怠った。
現在も、北方4島がロシアの領土であると規定する国際法上の根拠はどこにもない。国際法上、北方領土をめぐる立場は、日本が正しく、ロシアは指弾を免れない。日本がしっかりした国家意思さえ持てば、日ロ関係は圧倒的に日本が有利なのだが、官僚・政治家が馬鹿なのか、買収されているのか、日本政府はまともな外交ができていない。

  シベリア抑留

北方四島は、いずれも一度も外国の領土になったことのない日本固有の領土である。

歯舞群島、色丹島は北海道の一部、国後島、択捉島は南千島という。
その南千島のすぐ北隣りのウルップ島から占守島(しゅむしゅとう)まではクリル・アイランズという。
日本では南千島を入れて千島列島と呼ぶが、千島列島=クリル・アイランズではない。この点をはっきりさせないと、国際法上、非常にめんどうなことになる。

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参考文献 歴史年表