ブライアン不承認主義(1915年)

大正4年(1915)5月25日に日華条約が結ばれると、アメリカがこの条約に難癖をつけてきた

  日華条約(1915年)

1週間も経たない5月21日、日華条約に関係ないアメリカの国務長官・ブライアンは日華両国に「支那の政治的領土的保全及び門戸開放主義に関するいかなる協定も承認せず」と通告した。これがその後「不承認主義」として有名になった門戸開放主義に立つアメリカの極東政策の先駆けである。
このブライアンの不承認主義はやがて満州事変でのスチムソン国務長官のスティムソン・ドクトリンとして継承され、一層知れ渡り、後年、支那事変から日米交渉においてはハル国務長官の硬直した原理尊重主義となって日米関係を大きく阻害し、ついに戦争を引き起こすことになる。

  スティムソン・ドクトリン(1932年)

反日に向かっていたアメリカ政府は支那支援を表明し、アメリカのマスコミも日本非難を行った。アメリカはこの後、日本のあらゆる政策・行動に不承認を唱えてくることになる。

在支那アメリカ公使がポール・ラインシュであったことも不幸を重ねた。ラインシュはひどい親支反日派で、ラインシュの一連の日本非難の電報によってアメリカ人の心に日本は邪悪な国との固定観念を作り上げ、ついには日米戦争の確率を高めることに大きく貢献した

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参考文献 歴史年表