満州事変から支那事変まで

満州事変のあと、日本と支那との関係はよくなっていく。蒋介石もどちらかというと日本と仲良くする気持ちは非常に強い人物だった。日本は満州を黙認しるよう希望していたし、蒋介石も建前としては反対していたが、事実上は黙認した。
蒋介石としては当時一番の問題は共産党の問題だった。「安内攘外」と言って、まず共産党(支那)を滅ぼす、それから日本との問題を解決しようとというのが蒋介石の方針だった。
それゆえ日本との間は非常にうまくいくが、思わぬことが起きてくる。満州事変が起きてから4年後の昭和10(1935)年に、そのころはスターリンの全盛期だが、コミンテルンが世界赤化のために、民族統一戦線方式を打ち出す。

満洲事変は塘沽(たんくう)停戦協定で終了した。




満洲事変から盧溝橋事件までの6年間は、支那にとって抗日戦争の準備期間といえる。
反日運動はエスカレートし、日本製品の不買だけでなく、「日本人を見つけしだい殺せ」と書かれたビラなどがまかれ、実際日本人へのテロ事件が発生するようになった。

1936年(昭和11)8月4日、四川省成都を訪れた大阪毎日新聞特派員の渡辺洸三郎と上海毎日新聞記者の深川経二が大群衆に襲撃され、殴り殺された。二人は身ぐるみ剥がされ、顔面はつぶされた(成都事件
続いて、9月3日、
1936年9月3日の夕方、広東省北海市では進駐してきたばかりの第十九路軍所属の「抗日救国軍第一師」が、市内で「打倒日本賊」「打倒蒋介石漢かん」と書かれたビラを撒き、その一部が「丸一洋行」を襲撃し、店主・中野順三を殺害した(北海事件
翌4日には漢口で日本領事館勤務の巡査吉岡庭二郎が白昼狙撃され、死亡した。

こうした事態は日本の政府、軍、国民を刺激した。支那政府がこうした動きを取り締まれず(取り締まらず?)日本人居留民を保護できない以上、日本軍水から出動する以外に方法はない、と思い至ったのは当然であり、当時の世界的常識である。
このようにして日本はまんまと支那の挑発にはめられていった。
もっとも、当時の日本政府は、これら一連の事件にもかかわらず両国関係を改善すべく、ただちに支那側と国交調整交渉に乗り出した。諸事件の善後処理のほか、日支防共協定の締結や支那側の反日運動の取り締まりなどについて話し合われた。しかし、同じ1936年11月の綏遠事件の発生で、両国政府の努力は挫折する。

  綏遠事件

「反日」「抗日」は、反蒋介石勢力にとっては格好の大義名分になっていた。とりわけ当時敗色濃厚だった共産党にとって、「反日」を全国に呼び掛け、民衆の反日行動を先導するのはサバイバルの絶対必要条件だった。1933年、蒋介石軍による五回目の包囲討伐を受けた彼らは、瑞金ソビエトから脱出し、翌年6月中旬「北上抗日」を宣言したが、蒋介石軍の追撃や爆撃を受け、進路を西南に変え、大迂回して四川、陝西へと敗退した。

  長征
  共産軍延安着

壊滅寸前の共産党は、何としてでも蒋介石の「先安内、後攘外」の方針を改めさせ、「共同抗日」によってこの内戦を停止させたかったのだ。
蒋介石の天下号令に抵抗する二大勢力、西北軍の馮玉祥と賛成軍の閻錫山も「反蒋抗日」を全国に打電して呼び掛け、中華安国軍を組織して独立を宣言した。馮は張家口で抗日軍司令官を名乗り、気勢を上げた。そしていわゆる「西安事件」が起こる。

  西安事件


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参考文献 歴史年表