冀東・冀察政権成立(1935年)

塘沽停戦協定によって満州国と接する北支那の河北省内に非戦地区が設けられたが、そこで独立を望む動きが生まれた。この地域に住む人たちは北方民族であり、蒋介石孫文など南支那の人とは民族的にかなり違う。南方の人間が作った南京の国民政府が北支那を支配し、とんでもない高額の税金を課していた。自分たちは南支那の連中にべらぼうな税金を取られて苦しんでいるというのに、すぐ北の満州支那から独立して成功していた。彼らは当然のことながら満州がうらやましくなった
こういった不満から北支那の人々によって自治を求める運動が起きた

こうした中、昭和10(1935)年11月に非戦地区の督察専員であった殷汝耕(いんじょこう)という人物が、通州において自治宣言をして、冀東(きとう)防共自治委員会を作った。「冀東」とは「河北省東部」のことで、非戦地区と重なる地域である。こうして南京政府から独立を主張する自治区ができた。この冀東政権は非常に親日的だった。

これに対し、天津や北平(北京)でも自治を要望する人たちが現れた。南京政府は先手を打って、宋哲元を委員長として冀察政務委員会を発足させた。「冀察」とは河北省とチャハル省のことである。冀察政権のほうはそれほど親日ではないけれども、反日でもない。

冀東・冀察の両政権はいずれも反共を唱え、日本にとっては満洲帝国の南に反共の独立国ができることは好都合で、これらに対して好意的であった

このように昭和10年の終わりごろ、北支那では独立を志向する自治地区が誕生するという状況があった。

盧溝橋事件のすぐ後に起こったあのおぞましい大虐殺・通州事件を起こしたのは冀東政府の保安隊である。

  盧溝橋事件(1937年7月7日)
  通州事件(1937年7月29日)


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参考文献 歴史年表