孫文

孫文という人物は、日本では「中国革命の英雄」などと讃えられている。台湾でもいまだに孫文批判はタブーである。

こんにち日本人の大多数が信じている「孫文ら革命同盟会が辛亥革命をリードし、中華民国を樹立した」という見方は正しくない。これは孫文を生みの父とする国民党が作った神話にすぎない。

革命同盟会は日本人の支援の下で運動は進めたものの、辛亥革命前には実質的に空中分解していた。孫文も追放同然で一人アメリカへ去り、辛亥革命の成功もアメリカ得初めて知った。
孫文は第二革命で敗れて日本に亡命したため、第三革命でも”蚊帳の外”だった。このころ孫文は、やはり日本人の支援の下、東京で中華革命党を結成し再起をはかっていた。
おおざっぱに言うと、当時の支那を二分していたのは、段祺瑞ら北京の北洋軍閥と、その対抗勢力として南方の西南軍閥だった。孫文は革命拠点を築くため、この西南軍閥と提携した。そして、1917年8月、袁世凱時代に失業した国会議員たちが広東の広州で非常国会を開催し、孫文が大元帥に就任して広東軍政府を樹立した。その後、北京の反段祺瑞派の国会議員らも南下し、これに合流している。
孫文がめざしたのは、西南軍閥の分磁力を利用しての南北統一(北伐)だったが、翌1918年、もう一人の元帥である広西軍の陸栄廷(りくえいてい)らにまたもや排斥され、上海に逃げた
1920年秋、孫文の配下、陳炯明(ちんけいめい)の広東軍が広州を攻め、陸栄廷を追った。これに乗じて孫文は広州で第二次広東政府を作り、翌1921年5月、非常大総統に就任した。
1922年2月、奉直戦争の北京騒乱を好機として北伐の軍を挙げようとしたしたものの、連省自治派の陳に反旗を翻され、再び上海へ逃亡した。
しかし、翌1923年1月、陳が広東支配をめぐる軍閥混戦の中で敗れて敗走したことから、第三次広東軍政権が成立し、孫文は大元帥に返り咲いた。

孫文は、中華革命党を中国国民党に改組した。彼が再起のためにとった戦略は、コミンテルンの力を借りての革命(「連ソ容共」)であり、1921年に上海で結成されていた支那共産党との「国共合作」だった。さらに奉直戦争に乗じ、奉天派、安徽派などの軍閥と組んで全国制覇を企図した。
幾度もの革命に失敗し、共通目標を掲げる強力な政党作りの必要性を痛感していた孫文は、一方でその革命好きの性癖から1917年のロシア革命に感動し、支那革命達成のためにソ連との同盟(「合作」)をはかった。
1922年12月にはコミンテルンのヨッフェと会い、合作を決めた。その後、コミンテルンからボロジンを政治顧問として迎え、「すべての革命勢力を国民党参加に結集する」目的で党を改組して近代政党への脱皮を試み、反軍閥・反帝国主義を唱えた。1924年には広州で国民党第一回全国代表大会を開催し、「国共合作」の方針を定めた

  第一次国共合作(1924年)

孫文は「連ソ容共」の姿勢をとったといっても、共産主義者に転向したわけではない。彼はコミンテルンの国際共産主義を、自分が唱える「三民主義」の一部(民生主義)だと錯覚し、得意になっていた

  孫文死去(1925年)


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参考文献 歴史年表