共産軍、山西省侵入(1936年)

昭和11年(1936)2月、共産軍は軍閥・閻錫山(えんしゃくざん)が支配する山西省に侵入してきた。
共産軍は抗日という旗印を掲げ、ナショナリズムを打ち出していた。

  八・一宣言(抗日救国)(1935年)

このため兵隊たちは軍閥よりも共産主義の名の下の国家主義に惹かれ、軍閥側は劣勢になった。閻錫山の5万の山西軍は2万の共産軍に連戦連敗し、3分の1が共産軍の支配下に置かれてしまった(その後は蒋介石が大軍を投入して山西省を取り戻す)。

日本は、北支那における居留民保護の必要性から支那駐屯軍を2000名から5000名に増強した(これはたいした数ではない)。この駐屯軍は天津に置かれたので「天津軍」と呼ばれるが、その一部を通州に置こうとしたところ、北清事変最終議定書の趣旨に則れば京津鉄道から離れた通州は駄目だと梅津陸軍次官が反対し、その代わり北京の西南4キロの豊台に一個大隊を置くことになった

こののち、豊台の日本軍は盧溝橋事件に巻き込まれ軍隊を配置しなかった通州では日本人虐殺事件(通州事件)が起き、完全に日本を激怒させてしまった。

  盧溝橋事件(1937年7月7日)
  通州事件(1937年7月29日)

通州に兵隊を派遣しておけば、通州事件は起きえなかったであろう。豊台に兵隊たちがいなかったら盧溝橋事件に巻き込まれなかったかもしれない。
辛亥革命後に消滅した清朝との協定を重んじた日本の義理堅さが不幸なことになってしまったわけだ。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表