大山大尉虐殺事件(1937年)

1937年8月9日、上海において、大山勇夫海軍中尉が斉藤要蔵一等水兵の運転する車で視察中に支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ殺された。大山中尉は自動車のわきに多数の機関銃弾を浴びて殺された上に、頭を青竜刀で割られていた。斉藤一等水兵は運転台で多数の弾を受けて死んでいた。

1937(昭和12)年8月9日に日本と支那の間で外交交渉が始まった。支那側は大山中尉がピストルで支那兵を殺したので反撃したと主張した。大山中尉に殺されたとする支那人の遺体を病院で解剖したところ、体内から小銃弾が出てきた。大山中尉が所持していたのはピストルで小銃を持っていなかったので嘘がばれた。支那人が支那人を殺して死体を大山中尉殺害現場に置いたことが証明された。

日本は船津和平工作を行い、昭和12(1937)年8月9日に最初の会談が行われたが、その最中にこの事件は起きたのである。これにより船津和平工作は交渉初日に頓挫してしまった。

  船津和平工作(1937年8月)

そしてこの約1週間後に第二次上海事変が起きる。

  第二次上海事変(1937年8月)


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参考文献 歴史年表