船津和平工作(1937年8月)

盧溝橋事件の後、日本は北平(北京)・天津地域を平定したが、その時点ですぐに和平へ動き出した
支那側からも信頼されていた元外交官、実業家の船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけた。その際、陸軍、海軍、外務省が一緒になって作りあげた案は、日本が大きく譲歩するものだった。日本の和平案は以下の通りだった。


この案は要するに、満州事変以後、日本が北支那で得た権益のほとんどを放棄しようという寛大極まりないものだった。日本軍が占領した北平(北京)・天津地域を放棄するというのだから、支那側にとって好条件だった。支那側への要求は満州国黙認、反日運動を取り締まりであり日本が大きく譲歩するものだった。
これをもってすれば、支那と日本との紛争が即日止むことは明らかで、この第一回の話し合いが8月9日に上海で行われる予定だったが、当日に大山大尉虐殺事件が起こり、この工作は交渉初日で頓挫してしまう

  大山大尉虐殺事件(1937年8月)



  第一次トラウトマン工作(1937年11月)
  第二次トラウトマン工作(1937年12月)


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参考文献 歴史年表