第二次トラウトマン工作(1937年12月)


  第一次トラウトマン工作

蒋介石がブリュッセル会議にかけていた期待は裏切られた。また、戦局も支那側にとってかなり不利に展開するに至った。蒋介石の時局の見通しはあまりに楽観的に過ぎたのだ。日支和平交渉も、こうなっては蒋介石の思惑どおりに運ばなくなったのは当然である。
やがて南京は陥落した。

  南京攻略(1937年12月)

その翌日、北支に親日的「中華民国臨時政府」が成立するなど、北支・中支の情勢が著しく日本に有利に展開した状況下、昭和12(1937)年12月26日、新たな和平条件をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えた。
このときは南京攻略後であり、南京が落ちたときには日本側にも何万という死傷者が出ている。そうなると、以前のような寛大な案では済まなくなる。日本に対する損害賠償などが追加されることになり、やや厳しくなってくるわけである。
ドイツのトラウトマン駐華大使は12月26日、新しい和平条件を支那側に伝えた。
日本は回答期限を年末までと希望していたが、年が明けても支那側は回答を遅らせ続けたため、翌昭和13年(1938)1月12日、日本はトラウトマンを通じて支那側に即刻回答するよう催促した。
その結果、1月13日、支那側は王寵恵・外交部長を通じてトラウトマンに回答を寄せたが、それは「日本側条件は範囲が広すぎるので、秦城健の性質と内容を知りたい」というものだった。トラウトマンは「この回答は言い逃れと解釈される」「この回答では和平への希望が表れていない」との懸念を表明した。支那側は曖昧な回答を送ってきて回答期限を延ばし続け、催促に対してきちんとした対応を示さなかった
トラウトマンが危惧したとおり、広田外相はあいまいな支那側回答に憤激した。

このとき陸軍は戦争をやめたがっていた。頑強に戦争継続を主張していたのは尾崎秀実ほつみ)など、近衛文麿首相を取り巻く「進歩的な」連中であった。尾崎秀美はゾルゲ事件で明らかになったようにコミンテルンのスパイだった。支那国民党と日本との戦争を続けさせて、ソ連への軍事的脅威を弱め、支那の共産化を進める足がかりにしようと考えたスターリンの意図を受けていたと考えられる。また、日本には戦争を続けている限り社会主義立法がスムーズに行くことを知って、戦争継続を支持する軍人・官僚もいた。近衛首相はそういった者の意見に動かされた。
陸軍内よりも近衛内閣で平和交渉打ち切り派が強く、しかも支那が乗ってこなかったこともあって、トラウトマン工作は両国の会談まで至らなかった
そして、近衛内閣は国民政府を相手としない声明を発することになる。

  近衛声明「国民政府を相手にせず」(1938年1月)

それでも日本は和平の努力を継続した
国民政府のナンバーツーである汪兆銘との間で交渉が行なわれる。

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参考文献 歴史年表