第一次近衛声明「国民政府相手にせず」

昭和12(1937)年12月に首都・南京を攻略し、今度こそ講和がかなうかに見えたが、結局講和にならなかった。すでにアメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石が、あくまで徹底抗戦するという姿勢を示したからである。
トラウトマン駐支那大使を通じて支那国民党政府に示した和平案に対する返事が支那側から期限を過ぎてもなかった。

  第二次トラウトマン工作(1937年12月)

日本の和平提案に対する支那側回答が遅れている間、日本政府部内には蒋介石政権をあきらめ、新政権を期待する対支強硬意見が強まってきたが、参謀本部はこれとは反対に、日本の戦力の限界を考え、和平による事変解決の立場をとり、日支関係再建のため午前会議で公正な国策を樹立すべきと主張し、昭和13年1月11日午前会議が開かれ、「支那事変処理根本方針」が決定された。
そこでは日満支相互の親善及び文化・経済・防共面での協力を日支間で約すことを根本方針に九項目の和平条件を挙げ、講和実現の場合には梅津・何応欽土肥原・秦徳純塘沽停戦、上海停戦の各協定を廃棄し、治外法権租界・駐兵権など対支特殊権益の廃棄を考慮するのみならず、進んで支那の復興発展に協力する、としていた。しかし、支那側が和平を求めてこない場合は、蒋介石政権を相手とせず、秦高政権の成立を助けて、これと国交調整を図ると決定したのであった。

2日後の昭和13年(1938)1月13日、支那側回答(参照:第二次トラウトマン工作)に接した我が政府は、この回答は遷延策に過ぎず、蒋介石には和平の誠意がないものと判断し、11日の午前会議の決定通り、支那国民政府を相手とせぬ方針に一決した。
これについて、参謀次長の交渉継続論と外相らの打ち切り論が鋭く対立したが、参謀本部は政変を回避するため、交渉打ち切りに譲歩した。
日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共にトラウトマン工作の打ち切り伝え、ここに交渉は終了した。

昭和13(1938)年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明を発出した。つまり、重慶にあった蒋介石政府とは断交し、国民政府が支配しない地域にできつつあった政権を相手にするということである。日本としては、何とかして事変を収集したいがため、抗日姿勢を堅持する蒋介石政権(当時、重慶に遷都)に替えて、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」すると考えたのだ。
当時、日本の占領地域にはすでに中華民国臨時政府(北京)中華民国維新政府(南京)などの自治政府が誕生しつつあった。

  中華民国臨時政府
  中華民国維新政府

そしてこの年、戦火は徐州、広東、武漢三鎮など全支に拡大する。

この10ヶ月後の昭和13(1938)年11月、近衛首相はこの「事後国民政府を相手とせず」声明を修正する声明を発表する。「第二次近衛声明」といわれる「東亜新秩序建設」声明である。

  第二次近衛声明「東亜新秩序」建設(1938年11月)

参考文献:大東亜戦争への道(中村 粲著)

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参考文献 歴史年表