三国同盟死文化申し入れ(1941年11月21日)

乙案提出の翌21日、来栖大使はコーデル・ハルに単独会見し、三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと。またアメリカの対独参戦についての解釈は日本が自主的に行い、他の締約国の解釈に拘束されるものではないことを説明した無署名の書面を提示し、これによって日米交渉が促進されるものとハルが認めるなら、大使は即座に署名してハルに手交することを申し出た。だがハルはこれさえ握りつぶした。
その書簡をアメリカが公表すれば、三国同盟は即刻一片の死文と化したはずである。あれほど三国同盟に反対していたアメリカが、なぜ来栖のこの思いつめた申し入れに応じなかったのか。答えは簡単である。アメリカは本当は三国同盟に関心はなく、ただ交渉を引き延ばしの口実として利用しただけなのだ。現に、9月から10月にかけて、大西洋では独米間に「発砲戦争」が発生していたにもかかわらず、日本は対米攻撃をしておらず、この一事をもっても、三国同盟が事実上死文化していたことをアメリカは知っていたはずなのである。

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参考文献 歴史年表