真珠湾攻撃(1941年12月8日)


  アメリカの反日政策(東亜新秩序〜日米開戦

上記の開戦にいたる経緯を振り返ってみると、日本が生き残る道はもはや戦争しかなかったことがわかる。戦争責任を問われるべきは、日本を開戦へと追い込んだアメリカであろう東京裁判において「平和に対する罪」で日本が有罪とするなら、アメリカははるかに重罪である。

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍はハワイにある真珠湾基地を空襲し、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えた(と日本は思っていた)。この作戦は、アメリカの主力艦隊を撃破して、太平洋の制海権を獲得することを目指したものである。その直前、イギリスにも宣戦布告し、マレー半島に日本陸軍が上陸している。

  開戦の詔書(これを読めば日本がなぜ大東亜戦争を戦ったのか理解できる)
  マレー半島上陸

昭和16年(1941)12月12日の閣議で、支那事変を含む真珠湾攻撃からの戦争を「大東亜戦争」と命名した

  大東亜戦争

真珠湾で日本は太平洋のアメリカ海軍主力を叩き潰した。だが、3次攻撃を行なわず450万トンを貯蔵する石油タンクと海軍工廠は叩かなかった。もしこれを爆破していたらアメリカは少なくとも半年間は太平洋で動きがとれなかった。そうなればドゥーリトルも東京空襲もなく、日本軍はミッドウェー、ハワイも占領できたはずである。日本が大東亜戦争に負けた大きな原因のひとつがここにある。
ハワイの真珠湾攻撃という作戦を発想し、計画し、準備し、実行したのは山本五十六元帥だった。紛れもなく優秀なリーダーだったが、その後、別人のような愚かさに陥っていった。

この真珠湾攻撃において、日本軍は軍艦や軍事施設を攻撃しても、ハワイの一般住民には全然手をつけていない。日本軍の戦いは、国際法を順守するまことに立派な攻撃だった。

  戦時国際法

これに対して、アメリカやソ連は戦場における兵士だけでなく、銃後を守る非戦闘員の国民に向かって非常な攻撃を加えてきた。これほど卑怯な行為はない。アメリカは郷土で働く農民に対しても空から機銃掃射を浴びせ、列車を襲い、日本の113都市に焼夷弾の雨を降らして焼きつくしたのである。非戦闘員を攻撃してはならないという国際法など平気で犯した。

  東京大空襲
  沖縄戦
  広島、長崎原爆投下
  ソ連による樺太での虐殺
  ソ連による満洲での略奪、虐殺

また、この真珠湾攻撃はアメリカにいる日本大使館員の怠慢によって「奇襲攻撃」となってしまい、「リメンバー・パールハーバー」というアメリカの口実にされてしまった

  大使館員の怠慢によって「奇襲攻撃」

  「リメンバー・パールハーバー」

  開戦から降伏文書調印までの詳細年表

大東亜戦争においてアメリカは宣戦布告前から日本との戦争を始める予定があった。昭和16年(1941)9月ごろに、アメリカの参謀本部が「支那へ爆撃機、戦闘機を送り込み、そこから日本を攻撃する」という案を出していた。そこには飛行機の数まで明示されたから、実戦を想定したプランと見ていい。これにフランクリン・ルーズベルトはサインしている。ただし、そのころヨーロッパ戦線が風雲急を告げ、イギリスを応援するために飛行機をヨーロッパに回したから実際にはこの案は実行されなかったが、これはアメリカの都合による中止であった。
アメリカは日本と交戦状態にあると認識していた。それを象徴するかのように、真珠湾の無警告攻撃は東京裁判で罰する対象にはされていない。アメリカが自ら顧みれば、一方的に日本を攻撃する案を大統領が許可しているから、日本と戦争する意思があったことは、あとで明々白々になる。そのため、これは取り上げない方がいいという判断があったものと思われる。いずれにしても真珠湾攻撃に関しては一人の戦犯も出ていない支那事変も同じである。このことが意味するものは非常に重要である。

アメリカのフランクリン・ルーズベルトは、ヨーロッパ戦線でのドイツの快進撃を見て、とにかく戦争をしなくてはいけない気になっていた。またソ連も、独ソ戦の展開をにらみ、日本を対米英戦争へと何としても引き込ませたいと願い状況下にあった。そして深いところでは、近衛首相の側近にも尾崎歩罪のようなスパイがいて支那との全面戦争を煽り、アメリカでもハル・ノートの作成にスターリンのスパイが関与したように、ソ連の工作は日本やアメリカの政権内部にまで浸透していた。そして、これらの背景の上に、さらに日本文明と支那文明の質の違い、国民性の違いが壁となり、支那大陸における諸問題が立ちはだかった。

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参考文献 歴史年表