広島、長崎原爆投下

昭和20(1945)年8月6日にアメリカは広島にウラン235型爆弾を、8月9日に長崎にプルトニウム239型爆弾をそれぞれ投下した。同年末までに広島では約14万人が、長崎では約7万4000人が死亡した。犠牲になったのは女性や子供、老人などの一般市民がほとんどで、明らかな無差別大量虐殺であった。
この時期、日本の敗戦は既に明らかだった。日本には講和の意思があったにもかかわらず、アメリカは原爆を落としておびただしい数の一般市民を大虐殺した。

広島への原爆はポツダム宣言発表の2週間後に投下された。

  ポツダム宣言

アメリカの原爆投下の理由には以下の2つの伝説がある。
  • 日本国民を救うためであると同時に、本土決戦となった場合100万人のアメリカ兵の生命を救うために原爆を投下した
  • 昭和20年7月28日、鈴木貫太郎首相がポツダム宣言に対して「黙殺する」と語ったために原爆投下を招いた
戦後、GHQ(アメリカ占領軍)によるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによる洗脳によって、多くの日本人がそれを信じたばかりでなく、多くの歴史研究者がそれをオウム返しにしてきた。

  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

元長崎市長の発言や東京書籍の中学歴史教科書の記述など、相変わらず洗脳が解けていない人物、組織がやたらと多い。

  元長崎市長・本島等の発言

そもそも原爆を投下する前の4ヶ月間、日本本土上陸作戦で予想される犠牲者の数に疑念を表明するアメリカ陸軍・海軍の首脳はいなかった。100万人の犠牲者という数字が登場したのは、アメリカの正当性とトルーマンの名誉を守るため、陸軍長官のヘンリー・スチムソン戦後になってから創作した弁解に過ぎない。

日本側では昭和20年6月にはすでに「時局収集」を求め、すでに終戦に向け動き出していた。講和をソ連やスイスに働きかけていた。アメリカは既にそのことをよく知っていた。
当時、鈴木首相はアメリカ政府がまもなく講和条件を明示してくると予測していたが、ドイツ降伏後も、沖縄戦後にもアメリカは降伏条件を提示してこなかった。
万が一戦争を終わらせるためなら、なぜ原爆を2発も、しかも違う原料で作られたものを落としたか。その理由を説明できる者はまったくいない。

アメリカが原爆を投下した本当の理由は、現在では、以下の2点であることが世界の識者の一般的な考えになっている。
  • 原爆の人体実験を行うため
  • ソ連を威嚇するため
広島原爆慰霊碑には「二度と過ちは繰り返しません」などと噴飯ものの文字が書かれている。これを作った輩は「日本が悪いから原爆が落とされた」と言いたいのだろう。

広島が原爆投下都市に選ばれたのは、市民殺傷効果を見るのに最適な規模の都市だからであって、重要軍事基地だからというわけでは決してない。また、長崎が選ばれたのは天候のせいにすぎない。
日本人をモルモットにしたアメリカの「実験」はまさにナチスの犯罪と同じ「人道に対する罪」であって通常の戦争犯罪とすらいえない。

「原爆投下命令」をアメリカ第33代大統領をやっていた世紀の大虐殺者、ハリー・トルーマンが正式承認し、8月3日以降に広島・小倉・新潟・長崎のいずれかへ投下することになっていた。

原爆は日本がポツダム宣言の受諾を拒否したから落とされたなどという者がいるが、ポツダム宣言は7月26日に発せられたもので、すでに原爆投下命令は既に発せられていた。
戦争の早期終結により多くの米兵が救われたという者がいるが、広島に原爆が投下される2ヶ月前から日本は既にソ連を仲介として降伏する用意が出来ていた。
アメリカは戦争を終わらせ自国の兵を救うためなら原爆を投下してもかまわないと言っているわけだから、アメリカに対しては他の国、組織は(同じ理由を使って)原爆を落としてもかまわないことになってしまっている。こんなことに気づかないアメリカ人がまだいる。

広島が軍港であったから狙われたという者もいるが、爆心地は市街の病院だった。原爆の破壊力を考えれば爆心地が軍港であれ病院であれ意味を成さない。本当は被害を測定するため、まだ空襲によって被害を受けていない都市が選ばれたのである。
さらに早く戦争を終わらせ被害を少なくするために原爆が使用されたという者もいるが、それであれば広島に原爆を落とした3日後に長崎に落とす必要はない。この二つの原爆はタイプが異なり(ウラン型とプルトニウム型)、効果を測定する実験として二発投下された。多額の国費をかけて開発されたのだから使わなくては、という思惑もあった。
ヤルタ会談でソ連に日本への参戦を要請し、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本を攻撃することになっていた。戦後ソ連に軍事的に優位な立場に立つために、ソ連の参戦前に日本を降伏させたいと思うようになり、原爆を投下した。また、原爆という最終兵器をアメリカが手にしたことをソ連に見せ付ける意図もあった

フランクリン・ルーズベルトの急死によって大統領になれたトルーマン「潰れた田舎の雑貨屋の親父」とアメリカでさんざんバカにされていた人物だった。自分が強い指導者であることをアピールするために是が非でも日本に原爆を投下することでソ連を威嚇してやろうと考え、日本に原爆を落としたのだ。ウラン濃縮型とプルトニウム型の2種類の威力を人体実験で試した。有色人種に対してできる人種差別だった。

原爆を広島に投下するにあたり、アメリカは、明らかに最初から大量殺毅を意図していた。原爆が落とされる少し前、広鳥の上空にB29が来襲し、空襲警報が鳴り、広島市民は、防空壕に難を逃れた。しかし、敵機はそのまま広島上空を通過、空襲警報は解かれた。夏の蒸し暑い日のことである。防空壕から出てきた市民たちは、シャツを脱ぎ、上半身裸になって、涼を求めた。そこに再ぴ戻ってきたB29が原爆を没下して大虐殺を敢行したのだ。


8月9日
長崎大虐殺
(アメリカ軍は長崎に原爆を投下し、14万人以上を虐殺。(後遺症でのその後の死亡者を含む。含めない数は7万人以上)

2005年(平成7)、ワシントンの米国立スミソニアン博物館が先の世界大戦終結50周年を記念して広島に原爆を投下した爆撃機B299「エノラ・ゲイ」展を企面し、爆心地の惨状の写真、熱線で気化した少女の遺品、広島、長崎の原爆資料館から借りた資料などの展示を予定した。しかし、原爆投下を決める過程の記述をめぐり、米国空軍協会、米国退役軍人協会などの強硬な反対にあい、スミソニアン協会も要求をのみ、展示は大幅に縮小された。
ところが、日本政府は、公式には何の抗議もせず、ほとんどの日本人が、これに疑間を抱かなかった。そして堂々と日本人に対して無差別大虐殺を実行した戦闘機が飾られることになった。

  ヤルタ会談からポツダム宣言受諾まで

こんな大虐殺をおこなったアメリカに対して、なぜか日本人はアメリカを糾弾しない。残虐非道な行為の数々を犯したアメリカをはじめとする連合国軍に対する非難の言葉も、復讐の決意も、一言も示さないのはなぜだろうか。
ひとつは、GHQの戦後占領政策において、30項目の検閲指針に示されているように、日本と戦ったイギリス、アメリカ、オランダ、支那などを批判することを一切禁じられてしまったからであろう。かくて戦後日本の社会では、「敵」という言葉はタブーとして、官民どこからも発せられなくなった。それどころか、国民の意識の中に、敵とは外国ではなくて、日本の中の軍国主義者であるように思いこまされてしまった。

  アメリカ占領政策
  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
  検閲(言論統制)


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参考文献 歴史年表