カール・ヤスパースの「責罪論」

ドイツの哲学者カール・ヤスパースは「責罪論」を著した。

この中で、ナチ犯罪に関し、政治的に問われる責任以外は、「集団」としてのドイツ民族にいかなる責任も問うことはできず、罪を犯した個人は別として、ドイツ民族は道徳上の非難を浴びても、民族として、国家としてこれに応じる必要も理由もない、ときっぱりと拒絶した。この論法は、はなはだ問題が多く、被害を受けた側の他の国民の同意を得ることは難しいだろうが、この見解は、西ドイツの初代大統領から現在の大統領まで、ナチ国家の罪に対するドイツ政府の公式見解として、繰り返し強調され、継承されている

  ナチス

ヤスパースの案出した詭弁に近い論法を用いて、ドイツの歴代政府が「集団の罪」はないと言い張るのは、これを認めたらドイツにとって大変なことになってしまうからである。絶滅を行った国民は絶滅される。その底深い恐怖感。

ナチスはある人種に属しているものはそれだけで生存の価値がないとして、人を集団の名において罪にするのであるから、他の人種に、たとえばユダヤ人に「集団の罪」を着せていることにほかならない。全体主義の犯罪はすべて、犠牲者を「集団の罪」で裁いている。たとえば個人に罪がなくても、ある階級に属していればそれだけで罪人であるという考えが共産主義の立場である。
ナチ時代のドイツ人は他の民族や人種を「集団の罪」で裁いた。その恐るべき過去を持つ彼らが、自分が裁かれるときには「集団の罪」の適用を逃れようとするのはたしかに矛盾である。しかし、彼らはどうしてもすべてを「個人」の次元で解決しなくてはならない。罪の裁きも補償も「個人」の名において行おうとする。恐怖のゆえである。さもないと戦後のドイツは立ち上がるきっかけも得られないし、生きていくこともできない。国家そのものが成り立たない。それほどナチ犯罪は戦慄すべきものだった。弁解の余地のないことを歴代ドイツ政府はよく知っていて、泥沼に落ちていくドイツを、戦後いち早く予見し、救済した哲学者ヤスパースのロジックに、藁にもすがる思いで飛びついた。
問題は、これをひっくり返して誤解した日本人のばかばかしさである(ドイツ見習え論)。

  ヴァイゼッカー演説(1985年)
  「ドイツ見習え論」(1992年)


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参考文献 歴史年表