「真理の裁き・パール日本無罪論」

昭和27年4月28日、日本が主権を回復した日、「真理の裁き・日本無罪論」が発刊された。

  独立回復(サンフランシスコ講和条約発効)

筆者の田中正明氏は、昭和17年12月出征、昭和20年に復員後、長野県に戻り、新聞社の編集長として活躍していたが、昭和21年にGHQ公職追放令により職を解かれた。
その後、松井岩根大将がA級戦犯として起訴されたことを知り、急きょ上京した。松井大将が起訴されてから、田中は松井大将の無罪を信じ、巣鴨プリズンを訪ねたり、東京裁判を傍聴したりして、暗澹たる時代を過ごした。

  「A級戦犯」7人処刑

昭和24年1月10日、松井大将の密葬の席で、田中は、東京裁判弁護団副団長清瀬一郎(のち衆議院議長)と松井大将の弁護人伊藤清の二人から、東京裁判11名の判事の中でインド代表パール判事が、この裁判は国際法に違反するのみか法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復讐裁判のリンチにすぎない、よって全員無罪であると堂々と法理論を展開されたことを初めて聞いた。
その日を境に、田中は、松井の名誉の回復と罪悪感に打ちひしがれている国民に警鐘を鳴らしたいとの信念から、清瀬、伊藤両氏に秘密保持の念書を入れてパール判決書を借り入れ、学生アルバイトを雇って百万語に及ぶ長文を原稿用紙に筆写させた。しかも、主権が回復するその日に出版するために、心血を注いでいたのである。
当時、GHQはポツダム宣言に違反して、民間検閲局を組織、全国に二万四千人もの日本人を検閲官として配置し、デパートのチラシなどまでも徹底した言論検閲を行っていた。削除または掲載発行禁止条項は30項目におよび様々な批判を禁止していた。

  検閲(言論統制)

このような状況下での出版準備は、生命の危険さえも伴っていた。その逆境の中で耐え忍び、強靭な意志をもって、田中は日本が主権を回復した日、「真理の裁き・日本無罪論」を発刊したのだ。
昭和27年5月の新聞広告によると、発売後13日で3版、6月には6版と版を重ねていることから、当時230円は決して安い本ではなかったにもかかわらず、大ベストセラーになったのである。
そして、その後の昭和38年に出版された「パール博士の日本無罪論」は、現在でも、わが国の近・現代史を研究する者にとって必読書になっている。

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参考文献 歴史年表