日本が武装解除を行った後、アメリカ占領軍はポツダム宣言が「有条件条約」であることを無視し、無条件降伏したと主張して勝手に振る舞うようになった。占領政策はほとんどすべてポツダム宣言違反であり、国際法に沿わないことが行われたのである。そしてそのことが日本に”敗戦利得者”を生んだことを忘れてはならない。 その占領政策の一つが公職追放令だった。 占領軍はまず、ミズーリ号での休戦協定調印式から約1ヶ月後の昭和20年(1945)10月4日、「政治的市民的宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を発表し、内務大臣、警察幹部、特高警察全員の罷免と再任用の禁止を指示した。 これを見てもわかるように、最初に占領軍が行ったことは戦前の左翼を押さえていた機関に属する人を、一挙に追放することだった。これが占領軍が一番最初にやりたかったことなのだ。左翼を押さえた期間を解体することが、占領軍民生局の第一にやりたかったことだった。なぜならルーズベルトの周辺、とりわけ占領軍民生局は左翼の巣であったからだ。 終戦直後、アメリカ側の定めたプレスコードによって、完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。 戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。 公職追放令は、占領軍民生局のホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられた。ホイットニーもケーディスも社会主義者であったことが今では明らかになっている。ハーバート・ノーマンは後にコミンテルン(ソ連)の工作員であったことが判明し、裁判にかけられそうになって自殺した。彼らが、公職追放令によって、戦前、少しでも筋の通ったことを言ったり、日本のことをよく言った歴史学者や法律学者、経済学者たちを一掃した。 同じ昭和20年(1945)10月22日、占領軍は「日本の教育制度の運営に関する覚書」を出し、10月30日には「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」を発して、軍国主義者や極端な国家主義者、占領軍政策反対者等を教育事業から排除するように命じ、また現在および将来の教員の資格審査を行うよう命じた。翌年5月7日には、「教職員の除去、就職禁止及復職等の件」がポツダム勅令として公布され、いわゆる「教職追放令」が行われている。 さらに占領軍は、幣原喜重郎内閣が計画していた戦後最初の総選挙の実施を延期させたうえで、1月4日に包括的な公職追放をすることにした。「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」を発したのである。 その覚書は追放すべき人物を、 A項 戦争犯罪人 B項 職業軍人 C項 極端な国家主義団体などの有力分子 D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子 E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員 F項 占領地の行政長官など G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者 に分類した。 そして該当する人物は、中央・地方の官職と関係の深い特殊会社や団体などの役員、帝国議会議員とその候補者などになることを禁じたのである。この影響によって、幣原内閣の大臣5人が辞任した。そして、その年の4月に予定していた総選挙では、多くの議員が立候補できなかった。 さらに占領軍は一般的な措置だけでなく、政治家、官吏、教員などを名指しで追放するということも行っている。その典型的な例が、総選挙で勝って次の首相になると目されていた日本自由党総裁の鳩山一郎の追放だった。 その後も公職追放は拡大、強化されて、その範囲は地方政界、一般財界、言論界などのますます広がっていった。昭和22年(1947)には、有力会社、新聞社なども追放範囲に含め、追放された者が身代わりを立てるということも禁止された。その結果、約20万6千人が公職追放の対象になった。 つまり公職追放令とは、敗戦でも何とか生き残った、戦前の重要なポストについていたというだけの人たちが、今こそ日本を復興させようとしたのを根こそぎ排除した政策だったのである。 公職追放令が及ぼした影響は、A級戦犯と桁違いだった。20万人以上が追放されたということは、その影響を周囲の人たちも受けているということである。その典型的な例が、鳩山一郎や後に首相となる石橋湛山(たんざん)だった。 財界人では松下幸之助も追放されている。彼が「極端な国粋主義者」であるわけがない。しかし松下電器産業は戦争中、すでに大きな会社だったので、軍の命令により木製飛行機を作っていた。それを軍需産業だと言われて公職追放になったのだ。 追放された人たちは、公職、教職ばかりか、ものを書くのも許されないから、百姓をやるしかなかった。 名指しで追放されるのだから、立候補する資格のある議員などは皆、震えあがった。借りに立候補しても、いつ、誰が追放の指名をされるかわからない。皆臆病になってしまった。 このような日本が腰ぬけになった状態の中で、新憲法を作ることを命じられ、教育勅語が廃止されたということを我々は忘れてはならない。あんな状態で日本が自主的な憲法を作れるわけがない。 ここで重要なのは学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。公職追放令の中心になった人は、ハーバード・ノーマンである。 戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。この人たちが、敗戦日本における公職追放令の後、真っ先に戻ってきたのである。そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 そして、後に新しくできた大学の教授を排出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。戦前ならば、天皇陛下の大学にふさわしくないと批判された人たちである。 彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした影響は大きい。 その結果空いた重要なポストを戦前の左翼およびそのシンパが占めることになった。彼らが占めた地位は、大学教授やジャーナリストなど、長続きするような地位だった。 東大、京大、一橋大など、日本の主要大学の総長、学部長クラスの多くが、占領軍の民生局による公職追放令によって空いた席にポストが与えられた。こうして大学社会は、多くの教授たちを追放した挙句、完全に左翼、共産主義者たちの手に握られてしまった。彼らが戦後、日本中に数多く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。そうした教授連中とその弟子たちがアカデミズムやマスコミ界の牙城に君臨し、教壇の上から、またマスコミによって「南京大虐殺」などのデマが広まってしまった。日本の主要大学のトップの多くは左翼が居座り、以後もそれがずっと続くことになる。 彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから、高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。また高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育された。 このような現象は、言論界でも大新聞社においても同様に起こった。戦前、骨のある記事を書いたような人たちは皆、公職追放令によって切られてしまったのだ。 焚書とともにこの公職追放令により登場した「赤い教授」の代表者は以下の通り。 南原繁 「神よ、日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬ってください」などとほざいたために東京大学を追放されていた。戦後は東京大学に復帰し、総長の地位まで上り詰めた。また、「全面講和」を主張し、「非武装中立論」を唱えて、首相の吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られた。当時、「非武装中立論」とは、ソ連に進駐してきて欲しいという容共派だった。 矢内原忠雄 立派なキリスト教徒と言われるが、支那事変が始まった昭和12年に、講演で「日本の理想を生かすためにひとまずこの国を葬ってください」とのたまって東京帝国大学を追放された。こんな人物が戦後に東京大学の総長になっている。 大内兵衛(ひょうえ) 第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられているが、敗戦後に東大に復帰し、法政大学総長になった。 滝川幸辰(ゆきとき) 京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのに、それを拒否したのでやめることになった。彼は弁護士になったが、日本の敗戦後は京都大学の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。滝川と共に辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職に就いた。 一橋大学学長になった都留重人は明らかにコミンテルンの手先であったことを告白している。 戦後はたくさんの大学が作られたが、そこに配属される教授たちの多くは上記の「左翼総長」や丸山真男、大内兵衛といった有名教授たちの息のかかった人たちだった。そいいう連中がみな共産主義思想に同情・共感していた。 しかも、老教授が引退すると弟子が後を継ぎ、その弟子が引退するとそのまた弟子が残るという形で、南原繁や丸山真男の左翼思想が再生産され、後々まで残ってしまった。そういう教授たちに育てられたものだから、戦後日本は一挙に左翼的な社会になってしまった。 1991年にソ連が崩壊するまで、大多数のインテリや学者たちはみんなソ連が怖くて仕方なかった。アメリカが再び孤立主義に戻ると日本から引き揚げてしまい、日本はソ連に占領されてしまう。そうなると自分たちは粛清の対象になる。それを避ける保身術としてアリバイ作りのために反日論評や運動を行なっていた。国費で高額な給料で養われていながら国家転覆の革命運動をリードしていたのだ。 心機一転、一所懸命働いて祖国復興を目指そうというときに、職場から追放されてはかなわない。こうして、真実を知る多くの人々が口をつぐんでしまった。 このように我々が今、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 やがて公職追放令はどんどん緩んでいく。特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に、共産党幹部は追放せよということになった。実に滑稽な話である。 マッカーサーが日本を離れた後はリッジウェー中将が最高司令官に就任した。リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。 |
参考文献 | 歴史年表 |